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・読書
「グレートジャーニー 人類5万キロの旅 1/関野吉晴」読了。
 昔テレビでもやっていた、探検家関野氏の旅行記。放送されるたびに見ていた。その回の放送が終わってしまうのが残念と感じるタイプの番組で、今思えば、前田が初めてプロセスを最も大切にしたのは、このグレートジャーニーの旅行記なのかもしれない。
 本だと、写真は時折挿入されてはいるが、視覚的に物足りない。これはもう完全に体験の問題だと思う。全くの未知の自然を文章から体験することはできなかった。ただテレビで放映されていたような光景を思い出しつつ「厳しい自然」という、自分の体験の延長直線状にあるようなものは想像できたし、面白かった。
 関野氏の興味は自然ばかりではなく、そこで暮らしている、自然と共存している人たちにも向いている。文化人類学の教授でもあるし。今作でもやはりその面は強く出ていて、というか、現地人の暮らしの方が比重が大きい。
 これまた当然のことであるが、南米アフリカの奥地で暮らす人と自分のような日本人の文化・文明は全く違っている。この違いがかつては先住民に対する迫害に繋がってしまったのだろうが、勿論、この違いは人間の優劣にはならない。ただの多様性である。人間が生きるための手段はひとつだけではなく、色々あるという多様性。アマゾン川流域で生きる方法と日本の都会で会社に勤め生き方の差は、日本人Aと日本人Bの生き方の差とそんなに違わないのではないか? 例えばホームレスと呼ばれる人たちでもそれはそれで生き方の多様性のひとつであって、その方法を選んでいるということと、前田が会社に勤めるという生き方を選んでいるということには、なんら差がないというか、それはそういうもので、人間としてまたは生物としての価値を決定する一因ではないのではないか? 逆に生きているという実感(リアリティ)があるならばホームレスの方が生物として正しいといえる可能性もある。こういうこと考えていると、なんか社会人っぽいよね。
 また想像力の話に戻るが、読んでいる途中、地名が出てくるたびに前田は地図で確認したくなった。「どのような場所・環境なのか想像できない」ため、その想像の補助として地図を見たい、ということだと思う。しかし地図で場所を確認したからといって正しくその環境を想像できるわけでもなく、少なくとも前田にとって「地図を見たい」というのは「俯瞰した(外からみただけの)情報を手に入れて分かった気分になりたい」というだけのことではないか、と思った。想像するということに対する怠慢に思える。また前田は同時に「カフカの凄いところは、外から見るという意識が全くない点だ」という保坂和志の言葉を思い出していて、この言葉は「地図を見たい」という欲求と繋がるところがあるはずだ、とも思うのであった。
 そして「アメリカ/フランツ・カフカ」を読むのだ。
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