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・本のリスト
 読書メーターなるものがあって、最近、周りにユーザが増えてきた。んで気づいたが、これは友人から本を借りたいときに便利だ。
 リンク>http://book.akahoshitakuya.com/

・読書
 最近、全然読めていない。「百年の孤独/ガルシア=マルケス」が読みかけなのだが、下手に間隔を空けてしまうとこの作品は一気に分からなくなってしまう。少なくとも前田はそうで、前のページに戻ったりすることもよくある。恐ろしいのは、そうやってページを戻らせるということ自体、作者が意図していたのではないかと思えてくる点だ。いや、作者が意図していなくてもこの小説が意図している可能性もある。つまり、ページを戻るのもこの小説の面白さの一部ではないのか?
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・雑文
 小説の執筆はできなくとも小説について何がしか考えて文章にしていこう、と思い立ったけど、それはもともとこのブログでやろうとしていたことじゃあないか、と気づいた。つまり最近、このブログは前田の思考メモとしての役割を果たしていない!

 そうそう。小島信夫の残光が発売されましたね。今月は古川日出男の僕たちは歩かないも文庫落ちしますね。


・気づき
 フィクションでストーリーを使わないということは日常を描いていくということではない。
 こんな当たり前のようなことにも前田は気づいていきますよ(文学界締め切りまであと一月半くらい)。
・コメント返信
>kisaさん
 一位が「世界の中心で愛を叫ぶ」で二位が「ノルウェイの森」らしいよ。

>名月さん
 おお。そういえばサイトでノルウェイの森をかなり評価されていましたね。
 自分も村上春樹は好きですが、作品数はそんなに読んでいないです。

>仮名太
 あのシーンは俺もけっこう好きだ。しかし何故好きかと訊かれると答えに窮してしまう。


・読書
「覗き小平次/京極夏彦」読了。「嗤う伊右衛門」と同じ古典改作シリーズ。巻末に関連文献が載っているのだが、1900年以降の書物が一冊しかなくて笑った。
 解説の中で「久世光彦が『小説の世界に読者を引き込んで楽しませてくれる作品だ』と書いていた」とあったが、なるほど、その通りの面白さがある作品だった。作中の人物、物語がどのようになっていくかということに焦点が当たり、少なくとも前田は、今作を読んでいて小説というもの全体に対して思考が伸びなかった。抽象的だが、そういう小説だったのだ(抽象的というか、比喩にしかなっていないという気もする)。これは良い悪いではなくて、そういう面白さがあるということ。そして読書はその方が楽しい。こういう楽しい作品を読んでしまうと、前田は嫉妬とかしてしまう。
 特に印象深かったのが動木運平。京極夏彦は作品のキャラクタを機能としてしか見ていない、というようなことを言っていたらしいが、動木はその代表例というか、明確な例として挙げられる気がする。そのくらい作中における役割が際立っている。人間よりも災害という方が近いのではないか?
 ラストはとても映像的で、前田は好きだ。前田にとっては「嗤う伊右衛門」よりも良かった。
 それにしても京極の文章力は恐ろしいものがある。語彙の多さはともかくとして、特に今作は文章のリズムが面白かった。特に気にとめずに読んでいると、五・七・五になっているのではないかと錯覚する。しかし実際にはそうなっているわけではない。
・ピンポイント文
 最近、面白い文章とは何かを考えたりする。ここでいう文章というのは小説の中での文章のことだ。ただし、面白さの要素として文脈を考慮しないという制限をつけることにする。文脈もなしに面白い一文とは何か?
 言い方を変えるならば、或る文章を書いたときにその文章で良いと思う基準には、文脈以外に何があるか? どうしてその文章で良いのか? ということだ。文章ひとつに捕らわれてしまうと小説を書き上げるのに凄まじい時間がかかることになるが、拘泥せざるを得ない。
 例えばガルシア=マルケスの一文目はその一文だけで凄い。
「葉桜の季節に君を想うということ/歌野晶午」の一文目は凄いけど、その凄さはガルシア・マルケスとは全くの別物だろう。
 格言というのも一文の面白さを持つと思う。
 どれがベストだ、ということはないと思う。しかしストーリーを放棄した小説を書いている前田の考えたい、手に入れたいのはガルシア=マルケスの一文目だ。


・読書
「ノルウェイの森(下)/村上春樹」を読了。上巻の方に手をつけず、下巻だけの再読だった。村上春樹はノーベル賞を獲るや否や(今年はドイツの作家でしたね)。
 読んでいるうちに疑問に思ったのが「この作品の読ませる力はストーリーにあるのか、それ以外のところにあるのか」ということだ。これがイマイチ判断できない。
 前田の意識としては、主人公の語り口だけで読んでいけると思っている。だが、それは本当なのか? ストーリーが語り口に何ら影響を与えていないとは言い切れない気がしている。物語、人物、文章という三要素は小説の要素としてしばしば挙げられるが、「三」と区切るのは正解なのだろうか。物語と人物の不可分さというのがある。また、文体が人物を創るということを前田は体験したことがある。
 小説が要素から構成されているものではないのならば、物語、人物、文章などと分けていく目的は、執筆や評論の上での便利のためでしかない可能性がある。小説を読むという行為にとってはむしろ邪魔になってしまうのではないか? そしてその読むという行為は執筆において非常に重要なことでもあるのだ。
 一度この作品の内容を全て忘れた上で、もう一度下巻だけを読み直してみたい。

 そういや身近で村上春樹が好きな人を知らない。嫌いだという人は知ってるんだが。
・詩的表現
 空が斜めに傾いた。
 という表現は決して詩的であるとか比喩であるとか、つまりカッコつけただけのものではなくて、現実に空は斜めに傾きうる。ということを飛行機に乗っているときに気付いた。Einsteinの等価原理というやつだ。


・某所
 前田はただいま出張しています。
 その出張先で前田が指導を仰いでいる人が雑誌Newtonの取材を受けるということを聞いた。恐るべし。
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