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・ブランク
 読書にせよ執筆にせよ考察にせよ、小説からしばらく遠ざかっていた。そのためか、久々に小説を読もうとしたら10P程度で止まってしまった。こういうときこそリハビリが必要だろうと思う。このblogを書くのもリハビリだ。
 けどギターの練習は多少してた。そのうちアンプシミュレータとか買いたくなっている。


・不良の音楽
 2000年初頭に解散して邦楽ロックの一時代の終わりになったバンドとして「Thee Michelle Gun Elephant」「Blanky Jet City」「NUMBER GIRL」の3つが挙げられるらしい。んで、最近はこのうちブランキーが気に入っている。
 その昔、それこそビートルズが来日した際、老人たちは「ビートルズを聴いたら不良になる」と思っていたらしい。きっと紀元前の人間も同じようなことを言っていたのだろうという予想はともかく、ブランキーの音楽は不良、ヤンキーのもののように思える。実際に「僕はヤンキー」とか「不良の森」といったの曲もあったり、メンバーの風体が不良のようだったりする。
 ブランキーの楽曲そのものに「不良的なもの」があるのかどうかはわからないが、とにかく前田は「不良の音楽」という印象を受けていて、これが面白さのひとつにはなっているのだろうかと思う。BOCとかpillowsとかACIDMANとか、前田の聴いてきたバンドはみんなブランキーに比べたら「いい子」だ(もちろん良い悪いではない)。何故だろう? ブランキーの楽曲の幾つかはヤンキーの一人称だから? 悪いことが登場するから?


・カメラ
 ふとしたことからデジカメを入手した。これで小説の資料になるようなものを撮っていきたいなぁ、とか画策する。
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・コメント返信
>kisaさん
 けど一向にギターが上手くならんのだ。


・うおぉん
 卒業間近で論文の締め切りも間近なわけであるが、その前に一人焼肉で孤独のグルメごっこしたい。野望。


・J.D.Salinger
 サークルの冊子に「Dear, J.D.Salinger」という作品を発表し、Blankey Jet Cityというバンドの「Salinger」という曲が気に入った矢先にこの訃報ですよ。偉大な文学者が亡くなると、何かを逃したような感覚を持つ前田です。
 さて、ライ麦畑を読むか……。


・短歌らしきもの
 サリンジャーにこっち来いと言われて「うるさい、俺はマルケス派なんだ」
・I was musicだった
 修論の締め切り前であるのでblogの更新もしない日々が続いているが、「凛として時雨」のツアー「I was music」に行ってきた。
 内容は非常に満足である。ギタボのTKがアレンジ的にかなり叫んでくれたし、ライブで聴きたいと思っていた「傍観」もやってくれた。凛として時雨の音楽はCDで聴いても鋭いという印象を受けるが、ライブだともっと鋭く感じられる。鋭いどころか尖っている。刺さる。硬度が高い。こういう感触の表現を音楽に対して使うのはあながち間違っていなくて、どういうことかといえば、ライブ会場では本当に音に触れる。比喩的表現ではなく、音は空気の振動なのだから、音によって皮膚が振動していることを感じられるならばそれはやはり感触で以って表現可能だろう。ライブというのは音楽を聴くだけの場所ではなくて演奏者とそのアクトを観るものであるというのは周知の事実だと思うのだけど、それに加えて、音に触る場所でもあるのだ(音楽に触る他の方法といえば、自分で演奏する、だろうか)。
 新曲も披露されて、イントロから物凄く「凛として時雨」で、実にかっこよかった。しかし全く知らない曲のはずなのにちゃんとリズムに合わせて体を動かせたのは面白かった。これは何も凛として時雨だからというのではなくて、音楽というのはそういうものだということなのだろう。知らなくても先が分かる。その面白さ。この感触は初体験であった。
 それにしても、たった今書いた「実にかっこよかった」という感想の何と空虚なことか! いや、新曲をけなしているわけではない。問題は前田が新曲を全く覚えていないという点にある。聴いていた時間を全く自分の中で再現できない。にも関わらずかっこよかったと書ける、言えてしまうのは、その感想だけを言葉にした/その感想だけしか言葉にできなかったからだ。これが「言葉の持ち運び易さ」であり「音楽の持ち運び難さ」である。早くCD出ないかな。

 ライブ後の物販は完全に出遅れて敗退。
「バンドスコア取り扱ってないんですか?」
「売り切れました」
「じゃあ、七部袖のシャツを」
「売り切れました」
「じゃあ、Tシャツ……」
「売り切れました」
 物欲消化不良。悔しくてタワーレコード行ったらte'を発見したので買った。
・プロとアマ
 まつきあゆむという音楽家が、何かやろうとしている。

リンク>ヘッドフォンリスナーズサイクリングクラブ

 何をやろうとしているかは、下のリンクの『「1億年レコード」発表とM.A.F設立のお知らせ』に書かれている。2009.12.01の記事。

リンク>News

 簡単にいうと「ミュージシャンはどこのレーベルにも属しません。リスナーに直接音楽を売ります。中間マージンなし」をやろうとしている。
 当然、このやり方は既存のベーシックなものではないわけで、障害も大きいだろう。しかし成功すればクリエイタが正当な報酬を受け取ることも、自分の信じる素晴らしい作品を自分の裁量で発信することも可能になる。
 もしこの商売のモデルで食っていくことが可能になったら?
 前田にはまつきあゆむの行動がとても凄いものに思える。小説でも同じことができるんじゃないか? 同じことをやらなければならないのではないか?
 文学フリマなどの即売会はまつきあゆむのやろうとしていることに近いのではないだろうか。そう思った。
 大塚英志は文学フリマ開催を呼びかける形で、次のような文章を発表している。

リンク>不良債権としての『文学』

 きっとどこかで、文学で食っていくためには、作家は出版社と決別した売り方をしないとならなくなると思う。これはプロとアマの境界があやふやになるということでもあり、作品を書いてから流通・販売させるまでに関わる人間が少なくなる=文学で食うということがもっと個人的な活動になるということでもあるだろう。そうなったとき、例えば芥川賞などは権威を持つ続けられるのか? 今の本の帯でたまにみかける「○○推薦!」の文章はどのような価値を持つようになるのか?
 そんな未来予想はともかくとして、恐らく最も重要なのは、全くの個人で文学を売れる時代に既になっているということなのだ。


・芥川賞
 今期の候補が発表された。舞城王太郎が久々のノミネート。今期の文藝賞を取った「ボーダー&レス」と「犬はいつも足元にいて」の両方がノミネート。
 ここに来てようやく気付いたのだが、純文学系列の新人賞を取ろうというのは、きっと芥川賞を目指すということとほぼイコールなのだ。
 このことをどう捉えるか?「芥川賞を取るなんて難易度が高すぎる!」とみるか「なんだ、芥川賞なんてその程度のものなのか」とみるか。
・コメント返信
>紫苑
 セイント星矢を他のマンガ家が描いていたということがまず驚きだ。蟹座のカッコよさよりも。


・購入本
「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります/川上未映子」を購入。
 なんてこった……。こんなところに絶滅したと思っていた文学少女がいるぢゃあないか……。
 というくらい、面白い(まだ殆ど読んでいないが)。この言語感覚が好きだ。物凄く詩的でもある。町田康といい、川上未映子といい、音楽畑の人、凄いな。音楽の方も聴きたくなった。
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