忍者ブログ
[3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・読書
「わたくし率イン歯ー、または世界/川上未映子」読了。噂の文学少女(前田が勝手に認定)、川上未映子の短編ふたつ。
 川上未映子の文章は大阪弁らしいけど、前田が想像するような大阪弁とは多少異なっている。一般的に言っても違っているのではなかろうか。
 柴崎友香も大阪弁を使う作家であったと思うが、両者の使う言葉は実際に違っている。川上未映子の文章はこの時点で面白い。読んでいて違和感が、それもポジティブなそれがあり、すらすらとは読めない。変わった言葉が出てくるごとにつっかえてしまう。これが文章の感触を作っているように思える。
 この大阪弁を差し引いても、文章で書くこと(what)が分散していて、これがまた面白い。思考が飛びまくっているといってもいいか。思わず笑ってしまうようなところもあった。
 上記のような複数の文章に渡る面白さだけではなく、単文を抜き出しても、その単文にある文章の感触が面白い。単文で表されようとしていることがその文章の中で変化していっているとでもいうのか。この変化の結果、表現が思いもよらぬ言葉に繋がって、その言葉に新たな様相が加わるという文学の王道の達成。
 
 川上未映子の作品は、エッセイの「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」でも多少思った気がするけど、個人の世界観がくっきりしているせいで人物が孤独に感じる。
「そら頭は~」では作者自身だし、「わたくし率~」は主人公、同時収録の「感じる専門家 採用試験」では登場人物のうちのふたり。
 個人の世界が確かだからこそコミュニケーション不全が発生する?

 今作で触れられていた、「雪国/川端康成」の最初の一文は他の言語に翻訳できないということにすごいものを感じた。有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の文章には主語がないので上手く訳せない、ということ。主語が電車でも雪でもトンネルでもないということ。
 前田は、この文章の主語は「その場」ではないかと予想する。そこの全体ということを明文化せずに、そこの全体を描いているのではないか? 小説という言葉を使う表現でありながら、言葉を使わずに表現しているのではないか?
 ああ、そうか。これが行間というものか。
PR
・比喩可能な音楽の例
 今更、というほど遅くもないが「Revolutionary/9mm Parabellum Bullet」を聞く。
 前田は9mmに対して激しい音楽をやるというイメージを持っていたが、本アルバムに収録されている曲は結構幅がある気がした。激しいのから穏やかなものまで。
 今までのアルバムもそうだったのかもしれないが、少なくとも今回は幅広さが印象に残る。
 あと、シャウトという観点で「凛として時雨」と比較すると面白い。時雨のシャウトは高音で、長く、響く。9mmのシャウトは低音で、短く、破裂する。
 このふたつのバンドが「刀(またはナイフ)と銃」という比喩で比較されるのも納得。

リンク>9mm Parabellum Bullet official MySpace
リンク>凛として時雨 official MySpace


・場
 割と前に映画「マッハ!弐」を観た。アクション映画である。前作の「マッハ!」のアクションが気に入っていたので、今作も観てみようと思った次第。
 率直に言ってつまらなかった。理由はアクションが行われる状況にある。
 前作「マッハ!」はアクションシーンに至るまでのストーリーがあり、そのアクションが行われる理由が明確にあった。
 例えば「大量のチンピラに目を付けられ」て「逃げる」というアクションシーンが展開される、などだ。逃げなければならないという状況があるからこそ、逃げるというアクションになる。
 観客はこの明確さがあるから、素直にアクションシーンを楽しめるのではなかろうか?
 今作「マッハ!弐」にはこれがない。いきなり「アクションが行われるべき場」になるため、そのアクションになる理由が分からず呆然となってしまう。ただアクションそのものの出来栄えを観るしかなくなってしまう。前田が今作を「主演のPVだ」と評する理由だ。

 前田は以前まで「アクション映画はまずアクションそのもの有りきで、アクションが素晴らしければつまらなくなることはないだろう」と思っていたが、この考えは間違いな気がしてきた。
 きっとアクションという楽しみの核を楽しむためには、その状況、場という土台が必要なのである。
 核と土台という考えは恐らくアクション映画に限らず、全てのフィクションに適応できるのではないだろうか?
 重要なのは、面白さだけでは作品が成立しないという意識ではないか?
・視線のこと
 夏場は雲がデカくなるので、デジカメで撮影した。写真は小説で風景を描くときの資料にもなるはずである。
 
 自分の眼で見る風景とデジカメを通して見る風景は印象が異なる。見える範囲の広さ、焦点の違い、スペクトルの違いなどが原因だろう。つまり、視覚的な差異があるために、眼とカメラでは印象が異なる。つまり、視覚の上で印象の差が生じる。
 その他に、印象を変える要因はあるだろうか?
 多分、他の感覚にも要因がある。視覚以外の触覚、聴覚、嗅覚、味覚のことだ。
 例えば振り向いて背後の景色を見るのと、振り返って背後の景色を見るのでは印象が違う。しかしカメラに収めてしまえばどちらも同じ景色だろう。
 これは体勢の違い=触覚の違いが印象に影響を与えるという例である。実際にはこれだけでなく他の感覚も含めて風景の印象が作られることになる。風景には肉体が介在する、といってもいい。
 カメラで風景を撮るときの難しさは、普通の目線が肉体を使っているという事実にあると思う。カメラのファインダに肉体を介在させることができれば、良い写真が撮れるのではないかと前田は勝手に考える。
・44歳
 ホンモノに会ってきた。
リンク>the coffee group 『ワンコインからワンドリップ』
 古川日出男氏の誕生日に合わせたイベント。
 古川氏は小説家であるが、結構前から単に執筆だけでなく、自著を観客の前で朗読する「朗読ギグ」イベントをやったりもしている。音楽の生演奏を伴って行うのが基本のようで、今回、音楽は蓮沼執太氏らが担当した。
 前田が朗読ギグを観たのは今回が初めて。
 面白かったのが、この朗読ギグが人間の感覚を総動員して観賞するものだったという点。coffee groupとあるようにコーヒーが振る舞われたり、演奏中にコーヒー豆を炒るといった演出があったのだ。
 朗読、音楽は聴覚に来る。音楽は触覚にも来る。照明や演奏者たちの姿は視覚で、コーヒー豆の匂いは嗅覚にも味覚にも来る。コーヒーを飲んでいればもちろん味覚だ。
 更に小説、言葉という抽象を受け取るのは五感ではなく脳の言語野である。
 読まれた小説はコーヒーについて。
 ここまで人間の身体を使わせる表現媒体を前田は初めて体験した。
 また朗読には小説だけでなく、新聞も用いられた。
 新聞の文章なんて無味乾燥で小説的に(ノンフィクション的に?)面白くないのであるが、こうして朗読ギグの場で読まれると面白い。何が面白いか? 新聞で読まれるその内容ではなく、朗読という表現が、だ。ライブの一部として発声される音として、面白かった(こういう観点が生まれると、やはりフィクション/ノンフィクションの区別に対する意識が生まれてしまう。それは少なくとも前田にとっての、古川作品のひとつの真骨頂だ)。
 
 他にもその場で短編小説をカップに書いていくなども。全部で75のカップに短編小説の一部が書かれていき、全部つなげると一本になる、という趣向。前田も自分のコーヒーカップに書いてもらった。
 作品自体はtwitterで読める。
リンク>1C21D

 僅かであるが古川氏本人とも話をできた(あのタイミングで便所に向かうことになった俺の尿意に感謝する!)。上記の小説書きの一時休憩中といったタイミングで、全然、小説について訊いたりとかはできなかったのだけど。
 来年、またあれば参加したい。 
 だがしかし、ペンが水性だったのか、前田が家に持ち帰ったのち、書いてもらった文章のかなりの部分が掠れてしまった。これほどの悲しみはここ数年、体験したことがない。
 あまりに悲しいのでこの出来事をタネにして短編小説を書き始める俺。


・短歌
 最近、PCが壊れてストックしていた短歌のネタが全消滅したこともあり、短歌詠みに意欲がなくなってしまった。まあ、韻律を丸っきり無視したり、短歌そのものに情熱があったわけでもないのだけど。
 PC破損は韻律をちゃんとしようと思って、ちゃんとした短歌を詠み始めたタイミングでもある。
 短歌についてはちょっとしたターニングポイント中、といったところか。
 

・ジャッキーとかトニーとか
「ジャッキーのアクション映画はもはやノンフィクションだな」という旨の発言を見かける。すげえ納得できる。
 アクション映画は他の媒体に全く移せない表現のひとつだと思うが、その本質は上の発言にあるのだろう。
・art
「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」に行って来た。写真とかオブジェとか映像作品とか、色々なものがあった。
 その中で特に面白いと思ったのが、「CDのコピー」。
 ビートルズとかジューダス・プリーストとか、著名な音楽家のCDのコピー品をずらりと並べている、というような作品である。
 ここでのコピーとは転写ではなく模写である。つまり、CDのラベルやジャケット、ライナーノーツなどを全て手書きでコピーしてある。そしてこのCD、ちゃんと聴けるのだが、中身は作者自身の声によるコピーだ。ベートーヴェンの第九を鼻歌で収録していたりする。
 さて、鼻歌はひどい。聴けたものではない。
 ラベルやジャケットのコピーは上手いが、技術的にすごいだけで、コピーはコピーだろうと思う。
 しかし「作者はこのようなコピーが好きだ」というような文句もあって、ここから想像が広がった。つまり「このようなコピーを量産して飾りまくる作者の心境とはどのようなものか?」
「美術品とは作者の作品製作中の心境の残滓であって、だから同じ芸術である小説や音楽と違い、コピー品に価値がない」。この言葉をまさに体験させるような作品だったように前田は思う。

 他にも面白かった作品はあるのだが、上記のように「ここに面白さがある」と明文化できるものは殆どなかった。
 ただ、作品を小説という形でしか創ったことのない身としては、美術のような視覚的表現を創る思考はどうなっているのかと気になる次第である。

リンク>六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?
忍者ブログ [PR]