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・比喩の問題


 比喩という方法がある。或る事物や現象を、別の事物や現象と結びつけて説明及び描写する方法だ。説明するだけ無駄なくらいポピュラーな文章法である。
 何が問題なのか? 比喩は説明・描写するべき事物を簡単には説明・描写してくれない。

 前田自身は現時点で「比喩は説明・描写するべき事物を説明・描写しない。」と思っている。これは至極単純な論理からの結論だ。
 つまり、喩えられる事物は、喩える事物ではないということ。ふたつの事物、事象は別のものなのだから、喩えられる事物を語るとき、喩える事物を持ち出すと過不足な情報・印象が含まれることになってしまう。
 例を挙げる。「今日の甲子園予選で活躍したあのバッターは、まるでイチローの再来のようだ」。活躍したバッターはきっとヒットを打ちまくるのだろうが、しかしイチローとは全く違う。彼はイチローと同じ実績を残していない。
 バッティングスタイルが同じだということか? ならばイチローと同じバッティングスタイルをしている、と言えばいいのであって、イチローの再来のようだなどと言う必要はない。彼はイチローではないのだ。
 彼を説明するなら、イチローを引き合いに出して説明した気になるのではなく、彼自身を説明しなければならないはずではないか。
 この例から感じられる比喩の特徴は次のふたつだ。

・彼自身を説明するという困難を避けている(表現の手抜き)
・イチローがすごい選手であるかのように見える(権威の付加)

 ふたつ目について弁明しておく。何もイチローがすごくないと言いたいわけではない(むしろ前田はイチローファンだ)。上の例文は、「盲目的に」イチローをすごい選手とみなしているということだ。
 野球を何らかのマイナスポーツ、イチローを知らない選手の名前にすると効果がよく分かる。「このスポーツのことはよく知らないが、◯◯の再来の◯◯というのはすごい選手なんだろうな」。引用と同等の効果である。
 権威の付加を表現として利用するのはなかなか面白そうだ。

 表現の手抜きは比喩の問題だと思う。新聞とかの媒体であればどうでもいいことなのだろうが、小説だとそうはいかない。手抜きするという選択肢はもちろん存在するが、しかし、それはあくまで選択でなければならない。

 表現の手抜きと権威の付加を回避して比喩を使おうとするならば、別の思想が必要になってくる。つまり、比喩はそもそも事物の説明・描写のために使う技術ではない、という点から出発することが必要だ。

 比喩のもっと単純な特徴は「結びつける」点だ。事物の説明・描写でないということを踏まえると、全く関係のないふたつの事物を無理矢理結びつける、ということになる。
「あの人がゴキブリを見る眼はまるで、宇宙を飛び交う電磁波のようだ」
「あの人がゴキブリを見る眼はまるで、ネコのようだ」
 結びつかないはずのものを結びつける。そして結び付けられるもの同士には類似度ともいえるような距離が存在するはず。この辺りをとっかかりにして、比喩についての考えを進められるはずだ。
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・読書
「燃焼のための習作/堀江敏幸」読了。表紙が面白い。なんとなくで見ても面白いし、1,2ページほど読めば何を描いているか判るのも面白い。

 最初の1ページの描写は非常に面白かったのだが、メインとなる会話劇に入った後は読むのがしんどくて、三度ほど、序盤を読み直すことになってしまった。しかし今作の会話劇の正体は何なのかということに当たりを付けられるようになると、けっこうスルスル読める。
 会話劇と書いたが、実際のところ、この作品で繰り広げられているやり取りは、会話というだけでは言葉が足りない。会話のやり取りというよりも、記憶のやり取りと言った方が近い。登場人物たちは会話を通して互いの記憶を共有していく。そこには体感、感覚などが含まれていたり、関係のない出来事が記憶によって繋がるといったことも含まれている。

 会話文にカギカッコが付いていないのも記憶というところにポイントがあるからではないか? 記憶で振り返る過去の出来事は、登場人物の喋りの形ではなく普通の小説の描写のように書かれている。言い換えると登場人物の喋りは紙面に書かれていないのに、記憶は共有される。マンガではしばしば見る方法だ。
 いわば、会話のカギカッコがないのは「台詞が地の文の中に紛れている」のではなく「地の文がセリフとしても作用している」ということだろう。

 会話劇……というか記憶の共有と想起が繰り返されるので、登場人物にとって舞台は大きくふたつに分けることができる。つまり、思いだした記憶と、登場人物たちが現にいる探偵事務所のふたつだ。
 更に読者も記憶のやり取りには、半分だけだが、参加できる。登場人物たちのやり取りから自分の記憶を掘り起こすことは当然可能で、そのように作品へ没入していけば、読者にとっての舞台は四つまで増える。先に挙げたふたつに加えて、読者が本を読んでいるという舞台、それから読者の記憶の舞台だ(読者を巻き込んでいるということと、三人称の文章でありながら登場人物に敬称が付けられることとは、矛盾しない)。
 この「舞台が区分されている」という意識の中で、次のような文章が来るとハッとさせられる。もしくはこの文章によって舞台の意識させられる。

----引用開始----

 水分を摂り過ぎましたと照れ笑いしながら手洗いから出てきた熊埜御堂氏はすぐにソファに座らず窓の外を長め、ずいぶんつづきますね、ふつうの雷雨だったら二時間もすれば終息するものですが、とふたりのほうを振り向き、(以下省略)
(燃焼のための習作/堀江敏幸 152p)

----引用終了----

 前田はここまで読むのに二時間を確実に超えている。また登場人物たちが想起する記憶も二時間を超えているだろう。時間によって舞台が峻別されている……舞台間の違いを時間によって比較することが可能になっている。
 読者を巻き込んだ舞台間の違いが比較可能であるということ……これは、恐らく、フィクションの定義(もしくはリアリティの定義)に関わってくると前田は踏んでいる。
 演劇のことだが、舞台上には「現実」と抽象的な「幻想」が存在しているということに、フィクションを考えるヒントが潜んでいると、前田は思っている。「燃焼のための習作」はその「現実」と「幻想」を扱っているように見えるのだ。
・人間から外れて場になる


 またもや場に関して。
 前回、場とはスポーツであり、パラメータとして「広さ」と「ルール」を持つとした。また、「選手たちが動くことでスポーツの場は進行していくのだが、そこに人間はいない。」と書いた通り、前田が場という小説の駆動を考えたい理由は「小説でいかに人間を書かないか」を考えたいからだ。
 言葉と人間の関係を考えていくことで小説に人間が登場することの価値が見えてくる、みたいなことを以前考えたけど、方法はもちろんそれだけじゃないはずで、人間から遠い小説を考えることでも、小説に人間が登場することの価値に近づけるんじゃないか?
 それに、小説に人間は登場しすぎている。小説という表現形態が登場してから人間はこれでもかというくらいに小説に書かれ続けてきた。人間というものも時代に沿って変化していくのだから、人間が小説の要素として飽きられるなんていうことにはならないと思う。が、それでも人間は小説の要素として今まで書かれ過ぎているんじゃないか?
 そのようなわけで、場、である。
 前回は、登場人物が場に奉仕する思考・勝利に繋がる行動を取ることで人間がいない、などと書いた。しかしこれだけで小説の駆動が人間ではないような作品を書くことができるのか? 勝利条件としてテーマ・イメージを採用し、登場人物がテーマ・イメージに奉仕するような思考・行動を取ったところで、普通の人間が駆動となっている小説との峻別を図ることができるのか?
 できないのではないか?
 テーマ・イメージ、あと場のパラメータであるルールを設定して登場人物を奉仕させるように動かすというのは、単に書き手の方法論の域を脱しないのではないか?
 というか、テーマやイメージとはもともとそういうものだ。登場人物を含む全体がそこに向かっている、ということを以て「そこ=テーマ・イメージ」となるはずだ。
 今更気づいたのだが、スポーツにおける勝利者は一人(1チーム)のみということを考えると、勝利条件=テーマ・イメージとはならないのではないか。登場人物=選手とするなら、必ず誰か敗北するのだ。テーマ・イメージは達成されない。
 ……いや、しかし、例えばサッカーや野球の勝利条件と、体操やフィギュアスケートの勝利条件は、対戦相手がどこにいるかという観点において、全く違う。前者は「如何に相手の勝利条件を崩すか」と表現することが可能であり、後者は「如何に自分を勝利条件に近づけるか」と表現できる。小説で場を使うならば、体操的な勝利条件だろう……。だが方法論としては野球的でもいいだろう……。

 閑話休題。
 前田が書きたいのは、場で小説を駆動させて人間を薄めるということだ。スポーツの比喩はどうやって小説を駆動させるか、という問題になると思う。上で書いた通り、その駆動方法だけでは人間を駆動にしたものと区別できないだろうと思う。
 だからやはり、場……「広さ」と「ルール」のパラメータを持った人間でないものを書くにはどうすればいいのかというところに問題がいく。それも、場は人間と入れ替わらなければならない。主体を人間ではなく場に変更するとでもいうのか……。主体を人間からズラすとでもいうのか……。
 ルールは場を支配しなければならないし、広さは場になければならない。広さとは空間についてだけではなく、時間についても適用される概念だ。
 前回の広さの例文では
「福井県西暁町にいる主人公が通り魔と対決している間にも、広島県南条町では子どもを三人持つおかあさんが買い物カゴに大根を放り込んでいる。」
 などと書いたが、しかしこれは広さの表現としては良くない。理由は、不連続的だからだ。広さは、カメラの視界として広い範囲を撮るということであって、別の場面をカットインして表現されるものではない。
 時間についても同様のことが言えるかもしれない。

 以上のような意識を持って、注意深くあれば、小説の主体を場とすることができるのではないか?
・場という考え


 小説を駆動させ得るものとしての「場」とは何だ?
 単純な印象から出発しよう。場。field。物理学でいう場のイメージ。時空間全体に渡って定義され、座標に従属する物理量。そういうイメージ。
 小説には舞台がある。舞台とは何か? 場所だ。事件は「どこか」で起きるし、物体は「どこか」にある。演劇の世界では何も置かれていない、ただ黒いだけの壇上を使ったりしてどこでもないというか、完全なsomewhereを表現したりするが、前田はそういう小説を読んだ記憶がない。
「どこか」を現実的なものとして採用した場合、書かれない部分が確実に存在する。例えば日本が舞台だと標榜するとき、福井県西暁町にいる主人公が通り魔と対決している間にも、広島県南条町では子どもを三人持つおかあさんが買い物カゴに大根を放り込んでいる。
 また、場所には文化という側面もある。日本が舞台であるならば家の中に土足で上がることは基本的にない。表現し辛い空気というようなものもある。文化……空気……これは一種のルールだ。日本では往来で叫びながら走り回っているとマズい。しかしスペインのトマト祭りなら大丈夫なんじゃないだろうか。
 この広さとルールの存在が「どこか」の表現として重要なパラメータだろう。
 広さとルール? それはスポーツのことか?
 場ではなくスポーツと言うと、小説を駆動するものとしてより適切な気がする。小説を駆動させるものとして、人間ではなくスポーツを使うということ。

 スポーツには選手がいる。選手たちが動くことでスポーツの場は進行していくのだが、そこに人間はいない。スポーツの個々のプレイには「谷山選手は女手ひとつで育てられ、一時期は不良でしたが、しかしサッカーを始めたことがきっかけで構成し……」などというエピソードは入り込まない。各選手の性格がプレイスタイルに反映されていることは間違いないが、スポーツでは逆に語られる。即ち、性格に先んじてプレイスタイルがある。積極的に接触プレイを挑むような選手を「荒々しい」などと表現する。フィールドを離れた選手がどんな性格だろうが、そんなことはどうでもいい。
 選手たちの思考も、競技ありきというか、競技に奉仕するような形になっている。シュートを打つか、パスを回すか? それともドリブルで突破するか。メリット、デメリット、リスク、リターンを考慮した上で、最も勝利に繋がるものが選択される。選択の基準は勝利しかない。
 以上の意味でスポーツには選手がいても人間がいない。

 これをそのまま小説に適用できるか? 選手は登場人物であり、ルールは舞台。しかし、舞台にスポーツで勝利条件にあたるものがない。ならば付加する必要がある……テーマや、イメージといったものが勝利条件として付加されるのか?
 前田としては、悪くない駆動だと思う。
・小説のタイプ


 現在、古川日出男は雑誌「SWITCH」にて、あまり創作論には見えない創作論「小説のデーモンたち」を連載している。その第6回(SWITCHの2011年8月号収録)にて、古川日出男は「この世には二種類の小説しかない」と述べている。

----引用開始----

 一つは、いわゆる小説。近代的な小説と言ってよい。たとえば登場人物がいれば、その個人の内面が描かれる。物語を駆動するのは、人物の内面だ。
(中略)
 もう一つは、もしかしたら小説とは呼ばれない。神話的な小説だ。そこでは物語は人だの動物だのの個の内面で駆動されるものではないし、運命は運命自身の意志によって働いて、描写は視点人物どころか神(?)のレベルからしか行われない。
(中略)
 一冊だけ後者の例を挙げれば、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』がそうだ。神話的な小説。
(小説のデーモンたち 第6回/古川日出男)

----引用終了----

 小説を駆動させるものは何か? 抽象的だが重要な問題だと思う。
 個人の内面により駆動される物語、それから運命自身の意志によって駆動する物語。
 個人の内面は分かる。しかし、運命とは何だ?「小説のデーモンたち」は創作論らしいのだが、創作論として読むには説明が足りず、だからこそ、創作論として機能しているフシがある。運命という単語もまた説明されていない言葉で、だから個人で考えるしか道はなく、その道は創作と同じ方向に伸びている。
 ともかく、運命……というか、個人の内面ではない物語を駆動するもの、小説を進めていく人間以外のものを考えたい。
 今、前田の頭の中には「百年の孤独」を駆動するものとして「場」という言葉がある。場。field。物理学でいう場のイメージ。時空間全体に渡って定義され、座標に従属する物理量。そういうイメージ。
「場」という言葉は保坂和志の小説論において、「百年の孤独」は何によって駆動しているのかという話題のところで登場した。「百年の孤独はストーリーではなく、場によって駆動している」というような論調だった。しかし「場」という概念について言葉を費やして説明されてはいなかったように思えるし、どこに載っていたのかも憶えていない。やはり前田のイメージで考えていきたいと思う。

 そもそも小説の駆動とはどういうことか? 前田は単純に、読者が次の文章を読む、そして作者が次の文章を書く、そういうことだと思っている。ならば、駆動させるものというのは、読む根拠、書く根拠だ。強く言うなら、次の文章を読まなければならない/書かなければならない根拠。
 ストーリーであるならば、次の文章を書かなければならない根拠は明白にある。ストーリーは完結しなければならないからだ。
 ストーリーでないならば、どうなる?
 何がしかのテーマがあるのであれば、テーマが達成されるまで書けばいい。テーマさえなければどうなる?
 これより先はもう、個別の小説に問うしかないのではないか? 実際に具体的な小説を書き、それを書いていく中で「いつ終わるか」を常に問うしかないのではないか? いわば、小説を駆動する力がそこにあるかないかを考える……そういうことをしなければならない。
 作者がその小説全体に持っているイメージが、小説を駆動させる力であるかもしれない。作者の持っている小説全体のイメージが、きちんと反映されているかどうか。作者のイメージの実現に向けて小説が駆動する……。
 イメージの実現とテーマの達成というのは似ているか、包括関係にあるのかもしれないが、イメージの方がより明文化されにくい、または明文化されないものとして前田は扱っている。


 次は「場」について考えを進めていきたい。
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