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・年月のこと
 前田のことを話す。
 好きな作家は古川日出男。
 好きなバンドは凛として時雨。

 前田が初めて読んだ古川日出男作品は「ベルカ、吠えないのか?」だった。2006年11月01日に読了している。もしかしたら、前田にとっての最初の文学的衝撃である。
 あれから4年が経過し、前田は未だに古川日出男作品を読み続けている。全てではないが……。

 前田が初めて聴いた凛として時雨は「Telecastic fake show」だと思う。こちらの記憶は定かではない。「Nakano kill you」だったかもしれない。初めて聴いた日も不明だ。
 時雨は2008年12月にシングルを発売していて、前田はこれを購入している。前述の「Telecastic fake show」は同年4月発売。
 まあ、前田が凛として時雨を聴き始めたのは2008年からで、そろそろ2年になる、といったところだろう。未だに飽きず、聴き続けている。

 前田のもう少し前のことを書く。
 好きなバンドはACIDMAN、the pillows。
 たぶん、pillowsは2004年か2003年あたりから聴き始めて、ACIDMANは2005年頃から聴き始めた。
 ACIDMANを聴きまくるようになって、pillowsを聴く量はかなり減ったんじゃないかと思う。2007年くらいには、かなりACIDMANばかりだったんじゃなかろうか。そのACIDMANも時雨の登場で聴く量が激減する。どちらのバンドも3年ほど聴いたことになるだろう。

 そういう時間経過。
 前田は未だに古川日出男作品を読み続けているし、読み続けるだろう。
 凛として時雨はどうだろうか。新アルバム「still a Sigure virgin?」はカッコいいが、同時にバンドの音楽の岐路に立っているとも感じた。来年、前田はまだ時雨を聴き続けているか。他のバンドの音を聴いているか。

 今回の記事は全くの個人史だ。
 こういうことをこういう形で書いているのはダメな気はしている。

リンク>amazon「ベルカ、吠えないのか?/古川日出男」

リンク>YouTube「Telecastic fake show/凛として時雨」

リンク>YouTube「ハイブリッドレインボウ/the pillows」

リンク>YouTube「廻る、巡る、その核へ/ACIDMAN」
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・読書
「坊ちゃん/夏目漱石」読了。青空文庫のやつをiPhoneのSkyBookにて。レスポンスの遅さが難点ではあるけど、大辞林を導入しているので便利なこともある。レスポンスは遅いけど。
 今作は中学生の頃に読んだのだが、内容はすっかり忘れてしまっていた。有名すぎる「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」の文章とか、その後の無鉄砲のエピソードくらいは覚えていたが。

 そして、なんだこの面白さは……。
「吾輩は猫である」の文章はもっと読みにくかったのだが、今作はそういう印象がない。むしろ読みやすい。
 平常は、光景・風景の描写をあんまり行わないような、あっさりとした文章。稀に風景描写が入り込むが、これがホントに唸らされる、見事な文章だったりする。しかも短く、簡潔だ。
 能ある鷹は爪を隠すではないが、平常の文章に、レベルの高さが明らかな文章を放り込まれると、漱石の筆力の高さに感服してしまう。

 気になったのは人物の描き方だ。山嵐、赤シャツ、野だなど、登場してアダ名がついた時点で、早くも存在感があるように思えた。ストーリーとも違わない第一印象であって「展開が分かるからこそ面白い」というストーリー観を再確認させられた。

 最後の一文といい、物語というのはエピソードの連なりから成っているものなのだということを再認識させてくれる作品。
 小説のお手本というならば、まさに素晴らしいお手本だと思った。言葉の賞味期限も感じなかったし。

 あと、騒動の結末から「外からの視点」について考えるきっかけが得られるように思う。保坂和志が言っている、例えばカフカの作品に見られるような「外からの視点のなさ」についてだ。

リンク>青空文庫「坊ちゃん/夏目漱石」
・読書(引用あり)
「エレンディラ/G・Garcia=Marquez」読了。短編集。ちくま文庫で、訳は鼓直と木村榮一。
「百年の孤独」に引き続きガルシア=マルケス。この短編の執筆された時期も、百年の孤独の直後であるようだ。
 困ったことに「百年の孤独」と殆ど同じ読み方をしてしまった。短編であるから人物を思い出すとか、人物の厚みを作っていくとかそういうことはなかったけど、説得力に対する面白さばかりで読んでしまったということ。
 この意味で、前田は「この世でいちばん美しい水死人」が最も好きだ。
 例えば、こういう描写。

----引用開始----
巨大な体躯の美しい水死人に心を奪われた女たちは、少しでも立派に見えるようにと縦帆の布と新婦の衣装に用いる麻布でズボンとワイシャツを縫ってやることにした。(中略)これほど立派な男ならきっと魚を呼び集めてやすやすと漁をするだろうし、荒れ果てた岩地に水の湧き出る泉を掘り、花の種を撒いて絶壁をお花畑に変えてしまうにちがいない。(中略)
「顔を見ると、エステーバンという名前じゃないかって気がするね」
----引用終了----

「この世で~」はこういう説得力のみで作られた小説のように読めて、それが面白い。

 'のみで'などと書いてしまったが、実際にこの作品が本当に説得力のみで作られた作品なのかどうかは確信がない。

 テーマを読み取ることを無視して、その作品固有の面白さ、その作品によって動かされる自身の感覚を掴むという読み方は大切だし歓迎されるべきものだと思うけど、小説の読みというのはそれだけでないことは確かだ。
 とある評論家の教授に「作品を読むとき、どのように読んでいるのですか?」という旨の質問をしたことがある。これに対する返答は「作品の要求している読み方で読む」だった。本来小説というものは(フィクションと言い換えても良いと思うが)読み方すら作品に依存する。
 自分の読み方を確立させるというと聞こえは良いけど、実際にはただ視点が狭まっているだけというのはよくある話。第一、その固まっているという精神自体が文学らしくないのでは?
・読書(引用あり)
「百年の孤独/G・Garcia=Marquez」読了。新潮社のやつ。訳は鼓直。保坂和志の小説論を読み始めたころから読みたくなっていて、けれどなかなか読めなかった作品。
 ガルシア=マルケスがノーベル賞を取った当時、祖国のコロンビアではソーセージ並みに売れたという噂を前田は信じている。

 マコンドという架空の街に暮らしているブエンディア家の歴史、というべき内容。最初のひとりがいて、そこから子どもたちが生まれて、その子どもたちがまた子どもを産んで……そうして生まれてきた人たちの人生。
 当然登場人物も多いわけで(特にブエンディア家の人間が。結局、何人出てきたんだろうか)、しかも困ったことにブエンディア家の人間は名前がかぶりまくる。ちょっと挙げてみると、
「ホセ・アルカディオ・ブエンディア」「アウレリャノ」「ホセ・アルカディオ」「アウレリャノ・セグンド」「ホセ・アルカディオ・セグンド」「アウレリャノ・ホセ」「アウレリャノ」
 全部別人である。世代が違って同じ名前の人物も出てくるから登場人物が錯綜する。
 そうでなくてもほんのちょっとだけ登場して、後からまた登場するような人物もいるし、読んでいる途中に「こいつ誰だっけ?」となることも多い。そうなったらページを戻ってその人物を探したりすることになる。
 こういう「戻り」は作品に対してマイナスの評価となるのだろうけど、今作の場合はむしろ面白さとして作用するようだ。この面白さの捉え方は保坂和志の受け売りだけど、読んでみると分かる気がした。
 つまり、読み返すことによって人物を思い出すということ、その人物の行動を思い出して「ああ、あいつか」と思うということ、それらがブエンディア家の歴史の厚みを読者の中に作る。一読目で全部憶えておくのではなくて、あとでページを捲って探して思い出すという動作を伴うことが、その厚みにとって大切だということじゃないだろうか。

 確実に二読目の印象が変わるだろう作品であり、二読する価値が十二分にある。二読目は家系図を書いたり登場人物の相関図を書いたりしながら読んでいこうかと思う。
soledad

 人物を思い出すとは何かというと、当然その人物のエピソードを思い出すということだけど、読んでいてやっぱり面白いのが、その個々のエピソードだ。
 いわゆるマジックリアリズムという手法らしいが、出来事がいちいち非常識だ。比喩と解釈できる描写があったりするけど、それは解釈できるというだけで、実際には比喩でなくそういうことが起きている。

----引用開始----
 その日の午後に兵隊たちは町を去った。数日後に、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは町長一家のために家を見つけてやった。これで世間は落ち着いた。ところが、アウレリャノだけは別だった。自分の子供だと言ってもおかしくない町長の末娘のレメディオスのおもかげが心に焼きついて、彼を苦しめたのだ。その苦痛はほとんど肉体的なもので、靴にはいった小石ではないが、歩くのに差しつかえた。
----引用終了----

 出来事は非常識なのだが、そこには何故か説得力がある。前田が最も好きなエピソードは小町娘のレメディオスの、文字通りの"昇天"だ(ちなみに先の引用に出てくるレメディオスと小町娘のレメディオスは別人である)。
 この説得力が前田にとっての「百年の孤独」の面白さとして重要だと思うが、じゃあどこからその説得力がくるか、これはまだ分からない。

 今作には長い年数をかけて継続していくエピソードはあまりない。
 作品の最後の締めとなるエピソードはこのあまりない、継続されてきたエピソードだった。それだけに、ページの残り少なさと相まってそのエピソードに決着がつくということが匂わされると、急に時間を感じさせられた。つまり、百年がもうすぐ経とうとしている、という印象である。
 決してスラスラとは読めない長編を前田は何冊か読んだことがあるが、このような印象を受けた小説というのは初めてだった。

 
「百年の孤独」のような(前田主観の)伝説的な長編を一作読めたとなると、例えば「フィネガンズ・ウェイク」や「重力の虹」といったところにも挑戦したくなる。「死霊」も前田の中では伝説化している。


リンク>Amazon「百年の孤独」
・言葉と音楽
 バンド「te'」のライブに行ってきた。ツアーの名前は「敢えて理解を望み縺れ尽く音声や文字の枠外での『約束』を。」Release tour。長えよ! けど、te'にしては短い方である。
 te'のライブ自体はこれで二回目だが、やっぱりドラムがすごい。技術的な点は前田には全く分からないのだが、音がとにかくものすごい。
 エフェクタを付けているのだろうか、ときおりホール全体に反響するような音を出していた。だだっぴろい何もない静かなホールで一発だけ音を鳴らしたときに聞こえてきそうな、そういう音だ。
 爆音で聴けるというのが最も単純なライブの良さのひとつだと思うが、前田が今回聴いたドラムの響きはその単純さそのもので、すごく良い。思わず笑ってしまうほどかっこいい音だった(もちろん単音の良さだけではないけど)。



 ライブで聴いてきた感覚や、音楽自体を表現できれば面白いと思うのだが、残念ながら前田はそこまでできない。
 単純に描写の難易度が高いということもあるが、それに先んじてある問題は「曲を覚えていない」ということだ。すごかった、かっこよかった、ずっと続いてくれと思っていたことは憶えているが、音楽を聴いている最中の自分の感覚の状態を覚えていない。
(ファンの中では少数派なのかもしれないが)前田はまずte'の曲をよく憶えていない。これは聴きこみの量と質の問題であるとは思う。しかしその他の問題の可能性を指摘することも可能だ。つまりインストバンドであるということと、曲タイトルが非常に長いということの二点。
 例えば「言葉を用いて奏でる者は才能に在らず、ただの記憶に『過』ぎぬ。」という曲名がある。この長さはte'にとって普通で、というか、曲タイトルはすべて29文字に統一されている。
 一曲二曲ならいいが、アルバム全部とか、そういう単位になると全曲のタイトルを略さずに憶えるのは根気がいるし難しい。
 加えて曲がボーカルなし。歌詞の不在。声の入っている曲もあるが、それは歌ではなく声であって、やはり言葉ではない。
 思考が言語型の人間にとっては、曲を非常に憶えにくいのではないだろうか。そしてこの「憶えにくさ」というのは「曲の中の言葉のなさ」であって、te'の音楽を考えるにあたって重要なキーワードなんではないか、と想像する。
「言葉を用いて~」が収録されているアルバムには「美しき旋律も音を語る言を持たずしては心に『留』めがたし。」という曲もある。この2タイトルは対比は演奏する側と聴く側の差や音楽に対するある種の感覚を表現しているようで、なんとも面白い。

リンク>te' official myspace
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