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・読書
「13日間で「名文」が書けるようになる方法/高橋源一郎」を読んでいる。その中の「六日目」について、その内容のまとめと前田の思ったことを。

 社会から外れている人種として「子ども」と「老人」が挙げられる。何故彼らが外れているのかといえば、生産を行わない/行えなくなったからだ。
(資本主義)社会が人間に認める価値というのは「生産性」である。つまり何か金になることを効率的に行える人間の価値は高いと判断される。
 老人はこの価値を失った人たちで、子どもとは価値の評価基準を知らない、または評価に対する意識が非常に低い人たちだ。この意味で老人と子どもは近い。
 言葉というのは社会の中で人とコミュニケートするための道具で、だからここに生産性と効率が求められる。即ち、的確に意味を汲み取ってもらえる言葉こそが社会的な価値を持つ。具体的な個人(またはそれから成る集団)に伝わるよう最適化された言葉といってもいいだろう。例を挙げると、テストに対する解答は、そのテストの解答を知っている人間に対して十分に最適化されていることが望ましい。
 子どもは社会から外れているため、言葉もまた社会的な価値が低くなる。他人とのコミュニケートをする上で最適化されていない非効率的な言葉になる、ということだ。
 最適化とは「特定の相手に伝えるという意識=社会的価値を持とうする意識」から生じる。即ち、特定の相手に伝えるものとして意識されていないから子どもの言葉は最適化がなされないということだ。
 では、子どもは一体誰に向けて言葉を発しているのか?
 答えは自分自身だ。だから大人から聞けば意味が解らない。
 高橋源一郎の息子は、電話口で父と話しているとき、母と電話を交代する際に「じゃあママ・ギーギーゴーゴーに代わるね、ピン・ドン・ガン!」と言っていた(それとも今も言っているのだろうか?)そうだ。「ギーギーゴーゴー」は高橋源一郎のことでは全くない。「ピン・ドン・ガン」もそれ自体に意味はない。ただ彼は自分が楽しいからそれらの言葉を挟むのだという。
 全く非効率的な言葉だが、子ども・老人以外にもこのような言葉が使われる場面がある。それが小説・詩の言葉。つまり文学だ。
 ただし子どもの言葉と文学の言葉には異なる点がある。文学の言葉には、読者という前提があるのだ。
 ただしこれは「読者という集団に最適化されている」という意味合いではない。舞台に立つ役者の台詞のようなものだ。役者は観客に聞かせるために台詞を言うが、それはあたかも観客がいないかのように話される。前田が思うに、文学と演劇の違いは観客の持つフィクションに対する距離感にあるのではなかろうか。
 文学の言葉はやはり多数の人間に聞かれる・読まれることを前提にして書かれる。この意味で子どもの言葉に比べれば最適化されているといえるだろう。
 では文学の言葉よりも最適化されておらず、子どものそれよりも社会的であるような文章とは何か?
 この答えはラブレターだ。
 ラブレターはたったひとりの相手のためだけに書かれる文章である。
 しかしながら、時にはそのラブレターが文学よりも多数の人間の感動を引き起こすこともある。

 さて、以上のことから、文学を書くにあたって何を考えるべきか? 前田は「誰に向けて書くか」という意識だと思う。文学は社会化されていてはならない。社会から完全に断絶されていてもならない。
 文学とは、子どものように全く個人的なことをラブレターの相手に伝えるかのように、観客がいるという前提で書かれるべきなのではないか? これだけでは具体的にどうすればいいのか解らないが、そういうことなのではないか?
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・平日にて
 先週「te'」と「world's end girlfriend」というバンドのライブに行ってきた(オープニングアクトは蓮沼執太チームというバンドだった)。ポストロックやエレクトロニカというジャンルに分類されるらしい。らしい、というだけで前田にはよく分からない。
 非常に良かった。蓮沼執太チームの時点で身体を動かせたし、前田の目的だったte'が凄くかっこよかった。
 特にドラム。本当に音の感触がある。
 以前行った「凛として時雨」のライブでも音の感触があったたのだが、今回のte'はそれに加えて速度まで感じられた。バスドラムが鳴った瞬間、自分の前面に音が当たって即座に後へ突き抜けていく感じがあったのだ。
 具体的にいうとこの速度とは、音で自分の服がはためいた、という現象になるかと思う。物理的な現象で語ればこれだけのことかも知れないが、やっぱり前田は「速度」と表現したい。個人の感動を物理現象のみで表現するのは味気ない。
 もちろんドラムだけでなく、全体の演奏・音も良かった。音の凄さにびっくりして思わず天井を見てしまったのも初めてだ。

 te'の後にトリのworld's end girlfriend(WEG)であった。
 前田の気になっているバンドではあったが、ネット上で「ライブはよくなかった」みたいな評価も見たことがあったので、te'が主目的ということでもあったので「どんなもんだろう」ぐらいの気持ちだったのだが……想像以上過ぎた。
 CD音源と比べて曲がもう別物に思えるくらい凄くなっていた。つまりリズム隊……というか、ドラムが。ベース不在(だったと思う)でドラム2人。この辺りは蓮沼執太チームも同じだったのだが、WEGの方が強烈な音だった。te'よりも。
 リズム隊の強烈な音とギターとEWI(だと思う)の綺麗なメロディを聴いていると、「world's end」と「girlfriend」という言葉はそれぞれの音に対応しているのだろうか、と思う。殴るみたいな低音に綺麗だったり荘厳だったりする高音を乗せているからだ。
 しかしその高音というのも色々で、曲によっては酷くノイジィだったり、あるいは段々とノイジィになっていったりする。前田にはその音が音楽なのかどうかも分からないが、world's end girlfriendという言葉から受ける印象にとても合っていると感じた。
 荒々しい部分と美しい部分が同時にあるというのはte'とのひとつの差である気がする。te'は1つの曲の"展開として"荒々しさと美しさを鳴らしていたように思える。つまり同時ではない。WEGは同時にそれを鳴らす。

リンク>te' official MySpace
リンク>world's end girlfriend official MySpace
・「呟け!」って命令されて勢い余って大声で呟いた
 twitterで短歌(と前田は言い張っている)を投稿する作戦を開始。目標は1週間に2本のペース。
 前田の中では短歌の書き方は二種類に分類できて、その分類というのはつまり「一枚絵」か「ストーリー」だ。短歌は一般に小説よりも短い文字数となるため、発想だけで書くことも可能だと前田は考えている(この方法でどこまでの面白さが得られるのかは分からないが)。これが「一枚絵」の書き方。この小説にはないやり方というのが面白く、twitterでは「一枚絵」の方法で詠んだ短歌が増える気がする。
 しかし自分の感想としては、「ストーリー」的に作ったものの方が面白くなることが多い気がする(統計を取ったわけではないが、面白い/尾面白くないという評価は印象の問題なので、統計的に正しくある必要はないのではないだろうか)。できるだけ「ストーリー」的短歌も作りたい所存。


・お勉強
「物語の構造分析/ロラン・バルト」にてお勉強中。多分一年以上前に買って、そのときは冒頭の時点で理解できていなかったので積んでいた。今読んでみると理解できて、なるほどとも思える。
 読み書き両方の方法論として構造分析は実践可能だけど、この方法に囚われるとマズい、とも感じている。構造だけがフィクションではないということ。
 あと「13日間で「名文」を書けるようになる方法/高橋源一郎」を購入。しばらく実践してみることにする。


・読書
「LOVE/古川日出男」読了。文庫版。
 ハードカバーで発売されたのがおよそ5年前。前田が初めて今作の冒頭を立ち読みしたのは何年前なのか分からないが、そのときは「一人称の古川だし、ハードカバーだし、買うのは止めておくか」と思った(前田は、古川日出男文体の真骨頂は三人称だと考えていた)。買えよ俺。書き下ろしも文庫版あとがきもあったからいいけど。
 問題はこの作品を評価できないこと、考察できないこと。面白かった。けどそれ以上のことをここに書けない。無念である。
・歌っていうからにはロックにもなるはずだ
 短歌を詠んでみようか、という気分になっている。twitterで短歌を呟き続ける計画。果たして実行されるか否か?


・読書(ネタバレあり)
「生活/福満しげゆき」読了。作者はエッセイ漫画で活躍していて、その中で「バトル漫画を描きたい」というようなことを書いていたが、バトルも面白いじゃないかと思う。
 真っ先に目に付いた面白さが「街が舞台となっている」ということ。普通のフィクションは空間の何処かが舞台となっていて、その何処かというのは例えば街の一部であったりする。しかし少なくとも前田は、そのような街の一部を舞台としているフィクションを読んでいて、街があるということを意識しない。現に描かれている場所が注目すべき場所で、そこ以外にも場所があるということを意識していない、ともいえる。街を点的に捉えている、といったところか。対して今作は、街を線的(もしくは平面的)に捉えさせようとする。これは主人公ら登場人物以外にも人がいて、人が活動しているという認識だ。ギャグテイストで入っている「彼の人生において彼女と会うことは二度となかった」というナレーションは、街全体に意識を向けさせる原因のひとつだと思う。ギャグテイストとはいえ、今作に於いてかなり重要な演出ではないだろうか(前田は谷川俊太郎の詩の一説を思い出した)。
 コマのところどころで同じ人物が登場しているなどは、街全体へ意識を向けさせる方法だと思うが、決定的でない。これだけでは群像劇で「こことここが繋がっているのか」というカタルシスと変わらない。大切なのは繋がっているということではなくて、繋がっていないがある、ということだ。
 アクションについてもかなり面白く感じた。動きかっこいいし。絵柄自体は(エッセイで見慣れているせいもあるだろうが)、シリアスなバトルものっぽくないと思うのだが。そして絵・描き方を除いた点で面白かったのが、超人的な動きをしながら一方でやけに現実的なヘマをやらかすというところ。普通の漫画ならきっちりキメるところをキメられない。喩えるなら仮面ライダが変身中にやられるようなものだ。この一般人的というか小市民的というか小規模な感じ。街という舞台だから超人的な動きはある意味でそぐわないのだけど、小規模であることを主人公たちは自覚してもいる。小規模なヘマには「そぐわない」、もっと有体にいえば「中二病」という批判を打ち消す効果があるのではないだろうか。
 あと、ヒロインの存在が不思議だった。どうして前田はこのヒロインにマイナスの印象を持たないのだろう?

 それにしても、福満は(ネガティブな意味で)変な人間の風体を描くのが上手いな。
・読書
「グレートジャーニー 人類5万キロの旅 1/関野吉晴」読了。
 昔テレビでもやっていた、探検家関野氏の旅行記。放送されるたびに見ていた。その回の放送が終わってしまうのが残念と感じるタイプの番組で、今思えば、前田が初めてプロセスを最も大切にしたのは、このグレートジャーニーの旅行記なのかもしれない。
 本だと、写真は時折挿入されてはいるが、視覚的に物足りない。これはもう完全に体験の問題だと思う。全くの未知の自然を文章から体験することはできなかった。ただテレビで放映されていたような光景を思い出しつつ「厳しい自然」という、自分の体験の延長直線状にあるようなものは想像できたし、面白かった。
 関野氏の興味は自然ばかりではなく、そこで暮らしている、自然と共存している人たちにも向いている。文化人類学の教授でもあるし。今作でもやはりその面は強く出ていて、というか、現地人の暮らしの方が比重が大きい。
 これまた当然のことであるが、南米アフリカの奥地で暮らす人と自分のような日本人の文化・文明は全く違っている。この違いがかつては先住民に対する迫害に繋がってしまったのだろうが、勿論、この違いは人間の優劣にはならない。ただの多様性である。人間が生きるための手段はひとつだけではなく、色々あるという多様性。アマゾン川流域で生きる方法と日本の都会で会社に勤め生き方の差は、日本人Aと日本人Bの生き方の差とそんなに違わないのではないか? 例えばホームレスと呼ばれる人たちでもそれはそれで生き方の多様性のひとつであって、その方法を選んでいるということと、前田が会社に勤めるという生き方を選んでいるということには、なんら差がないというか、それはそういうもので、人間としてまたは生物としての価値を決定する一因ではないのではないか? 逆に生きているという実感(リアリティ)があるならばホームレスの方が生物として正しいといえる可能性もある。こういうこと考えていると、なんか社会人っぽいよね。
 また想像力の話に戻るが、読んでいる途中、地名が出てくるたびに前田は地図で確認したくなった。「どのような場所・環境なのか想像できない」ため、その想像の補助として地図を見たい、ということだと思う。しかし地図で場所を確認したからといって正しくその環境を想像できるわけでもなく、少なくとも前田にとって「地図を見たい」というのは「俯瞰した(外からみただけの)情報を手に入れて分かった気分になりたい」というだけのことではないか、と思った。想像するということに対する怠慢に思える。また前田は同時に「カフカの凄いところは、外から見るという意識が全くない点だ」という保坂和志の言葉を思い出していて、この言葉は「地図を見たい」という欲求と繋がるところがあるはずだ、とも思うのであった。
 そして「アメリカ/フランツ・カフカ」を読むのだ。
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