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・読書
「はるみねーしょん/大沖」読了。一巻。佐々木敦があずまきよひこ、あらゐけいいちと並べて大沖の名前を出していたので気になり、購入。「あずまんが大王/あずまきよひこ」は全セリフを暗証できるくらい読んだし(かなりキモい方だと思うがいかがか)、「日常/あらゐけいいち」も最近のマンガで一番のあたりだった。であるからして「はるみねーしょん/大沖」購入、読了。

 日常系のマンガに対してしばしば「登場人物だけで世界が閉じられてしまっている」ということが指摘されている(という認識を前田は持っている)。
 例えば、学校が舞台でメインキャラが三人だったとき、マンガで表現されるのはその三人のコミュニケーションだけで、他の人間との関わりは描かれず、つまり、メイン以外の他の人間との関わりがないという異常な世界になってしまう、ということ。

 日常系四コマといったが、実際にはドラえもんを引き合いに出すのが解り易いのではないかと思う。
 のび太、ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん。かれら四人は他に友達がいなかったのだろうか? 出木杉君がいる。ジャイアンの野球チームがあったはずだ。しかし、しずかちゃんは? どうしてしずかちゃんには女友達がいない?
 ここから話を膨らませるのは二次創作の常套手段だろうけど、大切なのは「しずかちゃんに女友達がいない」という憶測が二次創作を作らせるほどに魅力的=現実に照らし合わせれば異常、ということだ。

「あずまんが大王/あずまきよひこ」からはこの異常性があまり見られない。
 メイン、サブ両方のキャラクタの多さ。新規参入のキャラクタ。メインキャラのひとりである榊さんの風聞、ちよちゃんの風聞。こういった描写が異常性を消しているように思える(同作者の「よつばと!」については、この異常性が全くないように思える)。

「日常/あらゐけいいち」からもこの異常性が見えなかった。
 理由はやはりメイン、サブ両方のキャラクタの多さか。加えて『町』を描いているということも理由にあるだろう(実際には『町』を描くことだけが異常性を隠す要因となっているのかもしれない。キャラの多さは『町』を描く際の副産物とも考えられるからだ)。

 上のふたつの日常系四コマ(そういえば、この言葉をちゃんと定義していなかった。が、今はいいや。何となく使おう)に対して「はるみねーしょん/大沖」は異常性があからさまになっている。如何にも閉じられた登場人物たちで「彼女らには友達がいないのではないか?」という疑惑が持ち上がる。上記二作品のように、何らかの方法によって異常性を打ち消していない。
 今作には、人物のポーズや表情にバリエーションがあまりない。ここから前田は「もしや、異常性を打ち消すのではなく、むしろ意図的に増幅させているのではないか?」という疑惑を持った。
 つまり、人物のポーズや表情といったもののバリエーションが減ることで、不自然さが大きくなる。フィクションらしさ、限定すれば演劇らしさが大きくなるということ。作られた舞台上というのであるならば、登場人物しかいない閉じられた世界というのは逆に自然だ。


 \\すげえ//

 ↑のような台詞の表現が頻出する。これが面白い。吹出し外の文字は通常、オノマトペだけど、そこに台詞をいれている。しかも短い。もしかして、台詞をオノマトペ化する、もっといえば非言語化しようとしているのか?

 一番笑ったのは古今東西の回の、最後のネタ。
 否定の示す範囲って、素晴らしく広いよね!

リンク>はるみねーしょん/大沖
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バカな! 全然ブログを更新していないぞ!


・短歌
「今年はサンタさんに人質の解放を要求しよう」
 もちろん短歌ではない。
・自分は何になっているのだ
 最近は演劇を観に行く機会が多かった。
 友人の出演したフリバティ団の第二回公演『P』、フェスティバル/トーキョーで行われた五反田団の「迷子になるわ」とロジェ・ベルナットの「パブリック・ドメイン」を観に行った。

リンク>フリバティ団
リンク>フェスティバル/トーキョー

 三つの比較として面白かったのが、舞台の形体。そのまんま、舞台として使われる領域の物理的な話である。
『P』は建物の一階と二階の両フロアを使い、更に観客席の傍を役者が通って行ったりした。
「迷子になるわ」はどちらかといえば普通の舞台。しかし役者が動く部分がかなり広かった。奥行きがある。演劇の舞台の大きさといえば学校の体育館のステージ上を思い浮かべてしまう前田としてはそれだけで新鮮だった。
「パブリック・ドメイン」の舞台は、公園。屋根付きのステージも使われたが、屋外だ。

 最も特殊だと思われるのは「パブリック・ドメイン」。舞台が屋外だということではなく、屋外である理由が、観客の不在にある。つまり「パブリック・ドメイン」は観客全員が役者として動くことになる演劇だった。
 観客兼役者はヘッドホンを渡され、そこから聞こえる指示に従って舞台(公園)を動きまわる。指示と書いたが、実際には質問と回答だ。質問に対してイエスならば、例えば右の方へ動く、例えば手を上げる……といった具合である。
 質問が進んでいくと、イエスに対する指示に意味ありげなものが紛れてくる。
「舞台監督がいます。青いパーカを受け取ってください」

 質問に答えていくうちに観客兼役者は服の色で分類され、分類によって警官や囚人などと呼ばれ、そして自分たちが何をしているかも分からないながら、明らかに集団の一部として何かを演じていることが分かってくる。

 この演劇のポイントは視点にあるのではないかと前田は予想している。
 演劇を観るとき、観客は普通、外からその舞台上の全体を俯瞰する形になると思うのだが、今回ではもちろんそんなことにはなっていない。自分自身が役者となっているし、しかも台本も何もなくヘッドホンから聞こえる声に従っているだけだ。俯瞰するのではなく中から見る視点しか持てない。
 じゃあ俯瞰の視点がないのが面白いのかといえばそういうことではない。普通の演劇は俯瞰だから、観客兼役者は俯瞰の視点を持とうとする意識が残っている。想像することだって可能だ。
 この俯瞰する(しようとする)視点と中からの視点が同時にあるということ、これが面白かった。対立する概念の両方をまとめて呑み込んで別の領域に思考を伸ばす……難しいことであり重要なことだろう(古川日出男氏も対立の概念をまとめて呑み込むことの重要性を話していた)。

 また、この俯瞰/中からという対立は、個人/集団という対立と対応しているようにも思える。
 これら対立になっている概念の間には、大きな断絶がある。
 終盤、ヘッドホンから質問ではなく、観客兼役者の名前を直接呼ぶ場面があった。自分は呼ばれなかったのだが、呼ばれた人は相当驚いたのではなかろうか(単に驚くという表現では足りなかったのではないか)。いきなり集団から個人になったのだから(構成・演出を行ったロジェ・ベルナットは、この個人の名前を呼ぶことよって場がバイオレンスに傾く、というようなことを言っていた)。
 この演劇を演じながら俯瞰できたとしたら、その瞬間も名前を呼ばれるのと同じ衝撃がくるかもしれない。

 個人になるということで面白かったのがラストである。
 最後はスクリーンにミニチュアの人形たちが何かやっている場面(それは明らかに、観客兼役者が行ってきた行動と同様だ。しかし暴力的な何事かとしか前田には分からなかった)がコマ送りで映し出される。
 その後、キャスト一覧が出てくる。観客兼役者の名前全てがずらっと表示されるのだ(ヘッドホンを借りる際、観客兼役者は名前をスタッフに渡している)。
 たぶん、しかし確信があるのだが、キャスト一覧が表示されているとき、観客兼役者は全員、自分の名前を探したに違いない。


 俯瞰の視点/中からの視点、またヘッドホンから聞こえてくる声に従うなどから前田はこの劇が人生の比喩になると思ったのだが、一緒に参加した友人は社会的な意味での世界の比喩と捉えたらしい。
 友人と同じものを観賞すると異なった意見がでてくるのが良い感じである。
・読書
「蕭々館日録/久世光彦」読了。ずっと読みたかったがなぜが絶版になっているため入手できず、図書館でちょろちょろ読んでいた作品。作者は既に亡くなっているし、こういうときはamazonの古本に手を出すよ、前田は。

 舞台は昭和だけど、大正ロマンのにおいのする作品。
 言ってみれば久世光彦版吾輩は猫である。視点は猫のものではなく五歳の童女のもので、観察対象は小島政二郎、菊池寛、芥川龍之介、その他、かれらの友人面々というメンツである。
 前田は芥川くらいしかまともに読んだことはないのだが、その芥川の描かれ方が異様にカッコいい。
 人望があり虚弱で彼岸に半分踏み込んでいて、本当に本物の文章を書く美青年。加えて主人公である五歳の童女、麗子が彼を非常に好いている。子供が懐いているというレベルではなくて、女の感情で好いているのだ。なるほど、その感情に値する人間であるなとこちらも思ってしまう。

 その麗子であるが、五歳とは到底思えない知識と知性である。女としての感情もある。異様に大人っぽいのだが、反面、やっぱりちゃんと子供らしくも描かれていた。
 乙一は子供の一人称で作品を書くとき、その子供が実際には使えないような言葉を地の文で使う。これは子供がそんな言葉を使っているということではなく、子供の考えていること(おそらく、非言語的な思考)が別の言葉に言い換えられた結果、地の文になっているという意味だ。
 麗子の場合は乙一とは違っていて、きっと地の文で書かれている言葉で思考している。このふたつの対比はなかなか面白いと思う。
 麗子の大人びた言葉に現実離れした感がないのは、大正-昭和初期という時代設定のためだろうか。

 芥川らの他にも実在した作家が何人か登場し、多少のエピソードや文章も交えて紹介されたりする。文学史を多少知っておくと、けっこうニヤリとできると思う(前田が特に好きだったのは川端康成のエピソードだった)。
 凄かったのが、「谷崎さんならこう書くだろう」といって、眼前の光景を谷崎文体で表現するところ。谷崎だけでなく、泉鏡花や芥川などでも行っていた。横光利一もあったか?
 前田はそうやって模写された文体がそっくりかどうかは分からないが、文体七変化といった趣で面白かった。読む人が読んだら、ちゃんとそれらしくなっているだろうか? きっとなっているだろう。生半可に大文豪の文体模写を試みれるとは思えないからだ。

 話の終わりは、読者が芥川龍之介という名前から想像する通りである。

 久世光彦は他にも内田百閒や江戸川乱歩を登場させている小説を書いているので、そちらも気になるところ。まずは乱歩かな

リンク>amazon「蕭々館日録/久世光彦」

リンク>
amazon「一九三四年冬――乱歩/久世光彦」
リンク>古川日出男 トーク・朗読・スライドショー『ゼロからはじめる』

 Coyoteという雑誌の企画で古川日出男はメキシコに行った。メキシコというのはつまり、あのガルシア=マルケスが暮らし続けている国だ。古川日出男はそこでひと月過ごし、中編――中編の小説をCoyoteに載せた。
「やあガブリエル、と僕は言った。ゼロからはじめるよ。」
 その小説はそういう名前をしている。

 朗読、トーク、スライドショー。
 場所はスイッチパブリッシングの地下一階。思っていたよりも狭い。思っていたより? つまり前田が想像していた場所より。前田はどこを想像していた? もう忘れた。現実の、あの木目調の、木の椅子が並んだ、本棚にガルシア=マルケスと古川さんが並んだ、知らない本が並んだ一室を前田は訪れてしまったから、そんな想像は忘れた。

 備忘録的に、古川さんが語ったこと、前田が面白いと思ったことについて書いていこうと思う。
 前田は完全なメモを残していない。そして十分な記憶力を有していない。だからここに今から書くことを古川さんが本当に語ったかどうか、これは確かでないし、実際に違っているだろう。前田の憶測や感服がそのまま反映されることとなるはずだ。
 この意味で、フィクションである。


 既に言ったとおり('前田にとっては'書いたとおり)、古川さんはメキシコへ行った。飛行機で十何時間の旅。メキシコ滞在中の出来事等については先に挙げた「やあガブリエル~」に書かれている。
 メキシコ旅行自体は、いわゆる取材旅行という範疇に入る。
 しかしプランは立たない。立てようとしない。メキシコに行く、だからドコソコを見に行こうというのでは、追体験してしまうことになる。
 つまり、予め計画を立てて、パンフなどを眺めて「○○が面白そうだ」と期待を巡らせる。それから、実際を観光する。
 計画の段階で生じた期待を実際の体験がなぞることになる……実際に体験してもいないことを、追体験することになる。氏はこれを嫌っているようだった。
 なにも旅に限ったことではないのではないかと思う。小説を読んで小説の感想を書くその時にも、妙な追体験を行っていないか? 本当にその感想はその小説を読むことによって生じたものなのか? 後付けの可能性は? 感想を書く、評論を書く中で生じてしまったものは、ないか? それはまさに、実際に体験してもいないことを追体験しているに過ぎないのではないか?


 カメラのこと。
 古川さんはメキシコにて初めてカメラというものを使った。そこで体得した使い方について。
 目は人間の頭部にふたつ付いている。ここ以外の場所には付いていない。しかしカメラは、自由に設置できる。手で持ち、自由な位置から自由な角度に。目は必ずしもファインダを覗いている必要はない。
 前田も同じ使い方をしていたので、妙にうれしかった。これは自慢だ。



 この使い方から先の話もある。
 古川さんの撮った写真、これを見た人がこういう感想を持った。
「古川さんの文章、そのまんまだよね」
 小説を書くためには肉体が必要である。単純にペンを持つ・走らせる、キーボードを叩くために肉体が必要という意味合いではもちろんない。
 例えば小説を読むとき読者は、全ての文章ではないかもしれないにせよ、頭の中で音読する。人物次第で、その声が変わったりもする。
 書くという立場でいうならば、その語り手がどのように呼吸しているのか、どのように言葉を使っているのかということにまで意識を伸ばすということ。五感を使って語り手の肉体を手に入れようとすること。だから執筆には肉体が必要だ(小説を作ることの難しさのひとつでもある)。
 古川さんは肉体を駆使して文章を書いている。先の感想は、カメラを撮るときにも肉体が使われたことを意味している。
 カメラに五感を投げ出してカメラを第六感にする、ということ。

 小説を作ることの難しさについても話があった。
 小説の創作には3つのフェイズに分けられる。
 まず構想。全体の話があって、どんなシーンがあって、こんなラストになって……という構想。
 次に調査。例えば第一次世界大戦の小説を書こうとすれば、当然、資料から知識を入れる必要がある。しかし既に構想はある……事実は作家の構想のために存在しているはずがないから、資料を調べれば調べるほど、構想からズレていく。しかし同時に、構想を補強するような情報もある。
 最後に執筆。肉体を駆使するフェイズだ。構想もあって調査もある程度できていて……それらを前提とした上で、語り手の、登場人物たちの、個人的な肉体を手に入れなければならない。
 以上の3つのフェイズはそれぞれ全く違った作業になる。
 構想は頭の作業で、小説を外側から見るような作業だ。ただし自分のみが考えるところでもある。
 調査は、構想という自分の頭に外部から圧力をかける作業になる。上手く合致しない部分があり、妙に一致してしまう部分がある。ここもまた小説を外から見ている状態だろう。
 執筆は上のふたつとは更に違う。小説の内側だ。構想・調査に従って、自身の肉体を使って、書く。場面を書いたら、再び構想に戻ることになる。物語だから、次のエピソードがある。そこへ移らなければならない。再び小説の外側だ……。



 前田はトークのメモを取った。だから、氏が話した何を前田は面白いと思ったか、これをなぞることは可能だ。
 メモを元にここまで書いてこれたが、全体として、なにか、違っている。
 まとまった文章、流れのある文章になっていないのでは? AであるからBであり従ってCという結論になる――こういう論理的な文章になっていないのでは? そうかもしれない。だがそれ以上に、違っている、という感じがする。当たり前だ。前田に古川さんの語りを再現することはできない。順に記憶もしていない。語りの中にあった論理性も。散らばった記憶と説得力だけで、前田は今、書いている。支離滅裂? かもしれない。


 トークの中にあった情報量はきっと膨大だ。
 トークだけじゃない。朗読もやった。それは「やあガブリエル~」の、古川さん自身の朗読だった。イベントの終わりに前田はこういう質問をしている。「朗読の難しさって、何ですか?」
 古川さんから「スイッチを入れるのが難しい。人物を自分に憑依させるのが。いってみれば、イタコのようなもの」という旨の回答。
 再度、前田の質問。「じゃあ、自身の作品と他の人の作品を朗読するのでは、そんなに変わらないのですか?」
 古川さんから「いや、他の人の作品の方が楽(簡単、だったかもしれない。前田は忘れている。メモにも、ない)。特に「やあガブリエル~」は古川さんが語り手になるから、それを憑依させるために自分を殺して、けどそこに憑依するのは古川さんっていう、ワケのわからないことになるから」という旨の回答。
 イベントの途中に戻る。
 スライドショーも観た。メキシコで撮った写真だ。花が写っている。神の像が写っている。犬が写っている。
 神の像のところで、古川さんがスタッフに言ったことが面白かった。
「ちょっと、神、スライドいいっすか」
 全く文脈を無視してしまうと、この一文は簡単に誤解されるだろう。誤解された先が非常に面白いと思う。だから前田は古川さんの言葉をそのままメモに書き取った。この台詞は、事実だ。ただし古川さんがこの台詞を同じ言葉で書くと別の文章になるかもしれない。句読点、漢字の開きが変わる可能性があるからだ。ここにも肉体の反映がある。
 朗読、二回目。今度は「百年の孤独」。あの。ガルシア=マルケスの。
 前田は百年の孤独を読み、古川さんの朗読でその文章を読み上げることができなかった。しかし古川さんは百年の孤独を、ガルシア=マルケスを朗読する。できる。前田の知っている言葉だが、しかし抑揚、声、雰囲気は、前田の知らないものになる。知らない百年の孤独。
 途中から、朗読CDもかかった。恐らくは、原文での。ガルシア=マルケス自身による。コラボになる。

 以上が朗読での出来事。質問の時間も少しばかり先取りしている。


 古川さんはメキシコの面白さについて語る。日本との違いだ。
 美醜の基準が違う。
 メキシコの女の子は、セニョリータは、かわいくない。例えば向こうでは腹が出ているのが良いとされている……日本とは違う。メキシコに降り立ったばかりの古川さんは、メキシコの女の子をかわいくないと感じている。
 しかししばらくメキシコに滞在して、メキシコを体感していくと、やがて感覚が変わってきた。セニョリータがかわいい、そう思うようになっている。
 メキシコから日本に帰る。成田から電車に乗り……今度は日本の女の子がかわいくない。みんな人工的だ。かわいくない。
 美の基準は時代・土地によって変わるものだ。そういう知識を我々は持っている。持ってはいるが、体験することは少ないだろう。浮世絵の美人画を美人とは感じられない(美術として美しいと思うことはあるだろうが)。
 メキシコという土地を体感し、五感で触れることで美醜の基準さえ変わる。ここにも肉体がある。メキシコの感覚を丸呑するための肉体で、丸呑した肉体だ。またキーワードだ。美醜の基準、特に異性に対する美醜の基準というのは本能に根ざす。男にとって美人の女とは、突き詰めれば子供を成したい相手でもある。その遺伝子を残したいという生物の本能がある。美醜の基準とは、それだ。それが変わっている……。
 美醜を例として、二項対立のことにも話は移る。
 肉体によって美醜の基準が変化する、価値観がフレキシブルなものとなるように、様々な二項対立的分類はフレキシブルで、混ざり得る。
 先に書いた、神像のこと。
 メキシコはキリスト教だ。一神教だ。しかし町中に様々な神が祀られている。神が散乱しているのだ。そもそもマリアやキリストなどは、神ではない。神ではないが、まるで神であるかのような扱いになっている。三位一体……神もキリストも精霊も全てひとつ……しかし神とキリストと精霊じゃあないか。ひとつじゃないじゃないか。いや、けどひとつなのだ。神と神でないものという二項対立は、どこへいった?
 例えば西洋の風景画。
 風景画なのだから、実在する……具体的なものが描かれていく(時代的な作品群の変遷か、あるいはひとつの作品の作成プロセスの話か……それはどちらでもいいだろう)。しかしキリスト教の文化圏にあって、宗教的なものが風景画の中に現れ始める。そんなものはここにいないだろう? そういう現象なり、きっと天使なりが描かれていく。そうやって出来上がったものは、なんだ? 具象か? 抽象か? これは具象か抽象かではなく、具象であり抽象という……二項対立の消滅だ。具象をつきつめて抽象が入り込んで二項対立が混ざる。フレキシブルさ。
 そもそもメキシコ自体、価値観がフレキシブルな国のようだった。日本と違った多人種国家ということもあるだろうが……。だから古川さんは反発せずにその価値観を飲み込めたというようなことも話していた。硬直しない価値観。
 日本でタブーになっている物乞いはいる。
 さて、乞われたとき、何かを渡すか? 日本では行われない判断がメキシコでは行われる。先々で。その機会がある。日本ならば? 日本には機会がない。「ここでモノを与えるか?」これを判断する、その場の自分に従うという機会が。古川さんの言葉でいう、ジャッジが、ない。
 メキシコでは、自由だ。与えても、与えなくても。硬直していない価値観の一端。

 古川さんにこんな質問が飛んだ。
「作品の文章にスピード感がある。書いているときにも、書くリズムの速さとか遅さがあるのか?」
 答え。「8割はない。ずっと苦しんでいる。2割は、そういうのもある」
 ある詩人の話になった。
 4000字なら4000字、休まずに一気に書かなければならないような文章が存在する。途中で書くのを休んでしまったら、また最初からやり直すはめになるような文章が。


 会場は本屋にもなっていた。古川日出男の作品が並び、ガルシア=マルケスの作品が並び、そして古川日出男とCoyote編集部が選出した、「メキシコ」「歩く」「ラテンアメリカ」をテーマとした小説群がある。
 その中にフアン・ルルフォがある。
 絶版だったが、最近復刊された、あの「ペドロ・パラモ」がいる。「火山の下」? マルカム・ライリー? 前田はその名前を知らない。買う。Coyoteのバックナンバも置かれていた。古川日出男の、舞台のための作品、「ブ、ブルー」の収録された。
 トークと朗読とスライドが終わり、前田は「ブ、ブルー」のCoyoteにサインをもらう。自分の漢字を間違われてしまったが、むしろ嬉しさがある。自分のペンネームが、その間違った字になることを想像してしまう。ホンモノを相手に前田は大言壮語を吐く。

 全部終わって夜九時。前田の身体は震えている。渋谷駅へ向かう。途中でラーメンを一杯。まだ震えている。それどころか泣きそうになる。渋谷駅から山手線に乗る。車中で漱石の文学論を読もうとする……全く頭に入ってこない。読むのをやめる。まだ震えていて、泣きそうにもなっている。感動には違いないだろうと思った。

 最近気になっている人のブログにも、同じことに対する記事がある。
リンク>Spiral Fiction Notes『ゼロからはじめる』
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