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・読書
 読書の感想は小説で書けばいいんだ、と言った直後であるが、普通に感想も書くことにする。小説書くには時間がかかりすぎるからだ。
「MUSIC/古川日出男」読了。同氏の「LOVE」の続編にあたるだろう作品。「LOVE」を知らなくても楽しめるだろうとは思うが、知っていると序盤から早くも震えられる。
 題名の通りなのか、今作の特徴に「非・言語を描写する」ことがあると思う。猫のスタバの思考はその最たるものだ。
 言葉を使った言葉でないものの描写。文学の王道であると思う。
 文体だけみても相変わらず自分の好みで、それどころか過去の作品と比べると一層凄いものになっている気がする。成長? 進化?
 今作の朗読を作者が行っているがどうかはしらないが、読んでいる内に氏の朗読する声がまざまざと想像できた。これがいわゆる文体というものだろうと想像する。今は「百年の孤独/ガルシア=マルケス」を読んでいるが、こちらでは古川朗読を想像できないのだ。
 惜しくらむはあとがきがなかった事か。前作「LOVE」のあとがき、オリエンタのその後が素晴らしかったから、余計にそう思う。
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・初雑誌
 雑誌「ROCKIN' ON JAPAN」を生まれて初めて購入した。理由は「凛として時雨」特集だったから。
 インタビューなんかは面白いと思ったのだけど、それはともかくとして、曲の評論はつまらなかった。
 他のバンドの曲の評論なんかも読んでみたのだけど、大抵つまらない。
 例えば本誌ではこんな感じで時雨が表現されている。

---引用開始---
耳をつんざくようなハイトーン男女ツインヴォーカル、土砂降りの雨のようなシャープでヘヴィーなアンサンブル、暴力的なまでに振り切れた展開、(以下略)
---引用終了---

 ハイトーン、ツインヴォーカル云々は事実だからわかる。「耳をつんざく――」は単なる強調表現だろう。
 その次がわからない。「土砂降りの雨のようなシャープでヘヴィーな」って、どんなんだ? 前田が知らないだけで音楽業界では「土砂降りの雨」「シャープ」「ヘヴィー」は具体的な対象のある言葉として使われているのだろうか。
 展開については、まだ分かると思う。
 また、新作のアルバムについての評論には次のような文章があった。

---引用開始---
時雨の音楽は、消せない記憶の中で磔にされている自分を映す鏡のようだ。そんな自分を殺してしまいたくて、激しくその鏡に拳を打ちつけて粉々に砕いても、記憶は余計に鮮明になるばかり。その鮮やかすぎる記憶が苦しいなら、その粉々になった鏡の破片を手に取って腕に突き刺せばいい。流れた心の血だけが苦痛を快楽に変えてくれる――。アルバムを出す度に、そんな歪んだ麻薬性は増し続け、虜になる人が増え続けている。
---引用終了---

 音楽の描写でも説明でもない。初っ端から比喩だしその比喩を前提にして文章が書かれていくから、端的に言って意味が分からない。
 一応、時雨の曲をある程度聴いていれば「消せない記憶」「自分を殺して」「鮮やか」「突き刺せば」といったキーワードを拾って時雨っぽいと思うことは可能だろうけど。
 この手の文章は時雨についての記事だけでなく、他にもあった。ライブのレポなど。紙幅の問題もあるのかもしれないが、全然音楽の表現、または描写になっていない。だからつまらない。一般投稿の文章の方がよほど面白く感じる。
・果たして達成出来るやいなや?
 久々にこのブログの過去ログを読んだ。懐かしかったり時間の経ちっぷりにいわく言い難いものを感じたりしたが、それはともかく小説の感想で前田が何を言っているのか分からないところが幾つかあって困ってしまった。何だコイツ。何を言いたいわけ? 第三者が分からんのならまだしも(それもホントはダメなんだろうけど)書いた本人が思い出せんのはまずい。
 伝わらない・思い出せない感想になってしまっている理由は明白すぎるくらい明白で、言葉が足りていないからだ。
 じゃあ言葉を増やせばいいじゃないか、ということになるのだが、べつに前田は書評家でも評論家でもないので感想・評価に多くの言葉を割くことはないではないか。
 ということで、今度から小説の感想は自分で小説を書くことで以て行ないたいと思う。
「一億三千万人のための小説教室/高橋源一郎」でも小説を書くにはまず「既にある小説を、赤ん坊が言葉を真似るように、真似すること」が大事だと書かれていたではないか。
 あとは本当に小説で以て感想を書くことができるかどうか、だ。エンタメ作品の劇作論とかは無理だろうなぁ……。
 それに更新頻度も落ちるだろう。これは仕方ないや。
・映画のこと
 とある自主制作映画団体の撮影に参加した。手伝いおよびちょっとだけ出演。
 多人数でひとつのフィクションを作ったり、映像表現を作ったりしたことがなかったので、なかなか新鮮な体験だった。

 多人数で作るというのは、これはもう明確に小説とは違っている……と思ったが、違わない点もある。
 全体の統括や撮影したシーンの出来不出来を、監督がひとりで決定するという点は小説と同じだ(一般的に監督ひとりだけの判断でOKが出るかどうかは知らない。今回の前田の体験に基づいた話である)。
 シーンを実際に創り上げているのは役者やカメラマンなどのスタッフであり、監督自身ではない。監督は指示を出せるが、スタッフは監督の意図に完全に忠実な動きをしないし、出来上がる映像もまた監督の意図に完全には合致しないだろう(これを完全にやってしまうのが、良い監督であり良いスタッフである気がする)。
 つまり監督は映画を全て制御できず、意図されていなかった何かが映画の中に表現されることになる……と思う。
 この作品観は小説にもある。
 作家はひとりで小説を書くし、頭の中にある文章を実際に書いていく。しかし作家は文章それ自体を表現したいのではなく、文章によって"何がしか"を表現したい。少なくとも、前田はそうだ(ここで"何がしか"というのはいわゆる小説のテーマとは限らないし、「登場人物の悲しみ」といった別の語句で表現できるようなものとも限らない)。
 だから作家は文章について試行錯誤し、最終的に出力された文章も作家の意図になかったものを表現し得る。映画と同様だ。
 意図せずに表現されたものを察知し、作品全体へ反映させるのが良い作家・良い監督だろうと前田は予想している。

 映画と小説の違う点としては、製作途上に自分以外がいるかいないかということが挙げられる。
 小説の文章を書いている横で誰かが見ているということはない(それともプロの場合は缶詰になると横から編集者に見られるのだろうか? 想像しがたいな)。
 映画は常にスタッフがいる。監督以外が製作途上で作品を見ている。
 岡目八目という意味合いも含んではいるのだが、自分でない目、もしかしたら観客かもしれない目が常に作品を見ているというのは、非常に良い。
 その目に意見を求めることも可能だし、意見が得られないとしても、見られているという事実は自作に対する反省の視線を監督に生むのではないだろうか。
 つまり、目を意識すると生半可なものは作れなくなる。"何となく"でシーンを撮れなくなる。
 製作自体はとても難しくはなるが、クオリティは上がるはずだ。考えを煮詰めるのに一役買うわけである(考えが煮詰まる、というのは袋小路に陥るようでマイナスの印象を持たれるが、徹底的に考える=完成へと近づくという意味でもある)。

 もうひとつ、小説と映画の共通点。風景を使うが、自然の風景"そのまま"を使うとは限らないという点。
 映画では光の具合などを調節しないとならない。小説では登場人物の目を通す。いずれも生の風景ではなくなっている。
 ……と、簡単に書いてしまったが小説における風景の問題は(そして映画における風景の問題も)簡単に片付かない。この辺りの話は「小説の自由/保坂和志」の「私の濃度」で触れられている。

リンク>Amazon「小説の自由/保坂和志」
・演技と演技でない状態
「三月の5日間」という舞台をDVDで観た。劇団チェルフィッチュ。作・演出は、あの岡田利規。小説版は既に読んでおり、そして非常に面白かったので演劇の方にも興味があった。
 それで観てみたのだが……何だこれ。岡田利規は何を考えているんだ?
 話としては「アメリカがイラクを空爆した2003年3月に、ライブハウスで出会った男女が渋谷のラブホテルで5日間セックスしまくり、ホテルを出た後はもう合わないと決める。戦争はまだ終わっていなかった」となる。
「戦争はまだ終わっていなかった」の辺りに何か思うことはあるのだが、観てみるとそんなものは吹っ飛ぶ(小説版もそうだった)。
 話どころではない、というか、"演劇どころではない"のだ。
 フィクションの楽しみ方として「ストーリーに着目する」「キャラクタに着目する」「テーマに着目する」といった方法があると思う。しかし「三月の5日間」はストーリーやキャラクタやテーマといった、フィクションであることを前提にした側面に着目できなくなる。つまり「演劇(フィクション)なのか演劇でない(ノンフィクション)のか」という側面に目が行ってしまう。

三月の5日間の一場面

「三月の5日間」では場面がころころ変わっていくのだけど、その場面転換の度に役者が解説をする。「今から○○っていう場面をやります」とか「あと十分後に休憩にします」とか、そういうことを言ってしまう。そしてその解説の口調・態度と何ら変わらない口調・態度で演技を始めてしまう。
 始める、と表現はしたけど、そもそもどこから演技が始まったのかよく分からない。となると、場面転換もどの時点であったのか分からない。シームレスすぎる!

リンク>チェルフィッチュ
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