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・コメント返信
>muiさん
 追いつけんと思う理由は仰る通り。同じかどうかは分からないけど、近い気はしている。

 まあ、書けている云々といっても客観的に評価すれば二人ともアマチュアだという話になるし、どっちが良いといっても仕方ない気がしてきました。


・妄言
「ぷるぷる。ぼくは悪いスライムじゃないよう。人間になりたいんだ」
「ぷるぷる。ぼくは悪いスライムなんだよう。人間を滅ぼしたいんだ」


・読書
「生物と無生物のあいだ/福岡伸一」読了。生物学、生物化学を専門的に書いているのではなく、科学史も書かれていたりして、研究者の人間くささもあったり、生物化学とかの知見を解り易く解説したり、そして小説すら含まれていた。というか、この本はある意味で小説だ。
 それを痛感したのはエピローグで、多分、ここには筆者の世界観が描かれている。正確には生命観かも知れないが。ともかくその感触、説得力、リアリティが凄い。そしてこの世界観の提示の前には、科学という言語で記述された生命がある。エピローグで使われている言語は科学ではなくて、だから科学という言語と科学でない言語を今作が橋渡ししているように思えた。いや、本当に橋渡しになっているかどうかは分からないけど、橋渡しになっている可能性はあるはずだ。
 多分、世界を書く、世界の感触を書くというのが小説で、この意味で研究も執筆も同じなのだと思う。そうにしても、まさかここまで小説だとは思ってもみなかった。ショックを受けてしまう。
 科学の方で特に面白かったのは、生物の時間について。物理学とは違う時間で、それが面白かった。

 参考というか、今作の対比として「カンバセイション・ピース/保坂和志」を挙げたい。どちらかがどちらかのアンチテーゼになっているというのではなくて、ふたつの世界観はどちらも同時に成立する。
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・コメント返信
>muiさん
 そうはいっても、俺より君の方が書けてるように思えるけれど。


・習慣
「掌の小説/川端康成」から毎日一編二編を読んでいこうと思い立って、読んでいる。最近読了した川端は「名人」で、これは小説でないのだが「掌の小説」は小説で、作中の細かな描写がやはりすげえなぁ、と思ったりするのであった。石田衣良や山田詠美の文章は前田とまるっきり領域が違っていて「こいつは書けねえ」となるのだが、川端の場合は「追いつけねえ」という感想になってしまう。
・I will be music
 バンド、凛として時雨の魅力のひとつは、どこまでが音楽でどこからが音楽でないのかということを問うている点だと前田は思っていたら、次のツアーの名前が「I was music」で、おお、と思ったので行ってきます。


・読書
「カンバセイション・ピース/保坂和志」読了。買ったのはかなり前のこと。読もうと思って挫折して、一年以上積んでいたかもしれない。実に、密度の高い小説だった。今作は今まで前田の読んできた小説とは全然感触が違うのだけど、小説なのだ、きっと。
 読んでいる最中に考えるべきことがとても沢山あって、前田が挫折したのは前田の力不足だったのだろう。保坂和志は小説論を何冊か出しているけど、今作で書かれている思考(これは小説を通した描かれているという意味ではなくて、そのまま書かれていること)は、そのまま小説論の中に登場してもあまり違和感がないように思う。世界と私の関わりは保坂の小説論で重要なキーワードだ。それでもこの思考が小説論ではなく小説であるというのは、「場」が用意されている、もしくは「場」を作るためのものだからなのではないかと思った。きっと以前の前田ならば思考の展開だけを見て「世界に対する感触とか思考だけで小説を書いてもいいのか!」と勘違いしていただろう。
 場=fieldというのは、そのまんま作中に登場する家であったり、家に住んでいる人/住んでいた人であったり、庭だったりする。それら場に対するアプローチとして多用されるのが主人公の記憶なのだが、その意味で主人公の記憶も場の一部なのかもしれない。記憶となると当然絡んでくる概念として時間があって、今作で描かれている時間の印象は「その街の今は/柴崎友香」と似ていた。つまり時間が「薄い」のだ。もちろん批判的な意味合いは全くない。裏表紙に「過去と現在がつながり」とあったが、これに近い意味で薄い。前田の持った印象は「過去も現在も今だ」というような、これだけ見たら「何言ってんだおめえ」となってしまう印象だが、実際に今作を読めば「過去も現在も今だ」という感想はレトリックでも何でもなく、「そのまんまじゃないか」と分かる。そして時間だけでなく、人物という座標についても今作では統合される部分がある。
 思考と場の関係なのだが、これは前田には構成に関わっているように見えた。作中では長々と主人公の思考する世界のことについて語られたと思ったら、いつの間にやら庭に出て自然の描写をひたすら続けていたりする。この手の構成は「思考で開陳したことをこの自然の描写で実践したらどうなる?」という提示のように、前田には思えたのだが、それ以上に「思考→自然」という構成そのものが面白いように思えた(実際には思考→自然→思考→自然→……なんて単純な形はしていない)。どういうことかといえば、音楽である。今作にはストーリーがない。その分、音楽の「Aメロ→Bメロ→サビ→……」という構成のようになっているのではないか?(Aメロとか何とかはテキトーに書いている)ストーリーがあると構成の各部はもっと意味に還元できるのではないか? そんなことを思った。哲学のように言葉を使いまくっている作品ではあるが、この点で、音楽的なのだ、きっと。
 思考の内容だけを取り出しても考えるべき点が非常に多そうだ(多そうというのは、つまり前田が全部について考えられる頭を持っていないということ)。特に最近前田の感じている「言葉とはフィクションである」という思考の更に先があるようで、なんと言うか、嬉しくなる。「闇色ドロップス/施川ユウキ」の面白さは「言葉とはフィクションである」ということに由来している前田は感じているのだが、例えば今作に登場する「ナオネエの影」は更にその先を促している。幽霊というのは或る側面(言葉)では「亡くなった人の魂がこの世に戻ってきたもの」で、或る側面では「恐怖が生み出す錯覚」で、しかしいずれにしても同じものだ、という考えだけでは足りないのではないか? キーワードは「人間が知っていることは世界の0.000000000……1%に過ぎない」。

 ちなみに、Conversation pieceの日本語訳は「話題のタネ、格好の話題」または「集団肖像画、風俗画」である。
・コメント返信
>仮名太
 分析してしまうのは或る種の職業病みたいなもんなんかな。しかし面白さを分析すること自体も面白い、と前田は思うのであった。そして分析できないこともよくあるのであった。


・読書
「え!? 絵が下手なのに漫画家に?/施川ユウキ」読了。エッセイマンガ。作家のデビューできていない時期とか売れてない時期のことを読むのはけっこう好きだが、同時に二度は読みたくない。「僕の小規模な失敗/福満しげゆき」もそうで、好きなマンガなんだが再読はしたくない。と、ここまで書いて気付いたが、読みたくないのは「絵が下手~」も「小規模~」も青春の失敗があるからだ。
 んで、「絵が下手~」には「闇色ドロップス」というフィクションも載っていたのだが、これが非常に面白かった。言葉遊びというと語弊はあるけど、言葉遊びの面白さ。言葉ではなくフィクションといった方がいいか。自作のフィクションが現実と関わるということ。勝手に妄想して真実はこうだと思い込んで、後で事実を知って恥ずかしくなったりするあれだ(事実を知って恥ずかしくなるのは余計だが)。子ども時代と限定しなくても、大抵の人はこのフィクション遊びを意図的にではなくやったことがあるんじゃなかろうか。ここで「ない」と言われたら前田は滑稽だな。しかし滑稽にせよ何にせよ、人間の認識がフィクション遊びの域を出ることもないんじゃないか、とは思う。マンガにせよ小説にせよその面白さのキモには常に、文字通り、フィクション遊びが含まれているのではないかと、そう思う。
・コメント返信
>kisaさん
 しかし自分は登録していないという……。やるならここで書いてる「読書」のコピーになるな。読書履歴の管理という点ではメータを使った方が便利そうだ。
 自分の知っている人で登録しているのは君を含めて五人だ。


・別の側面
 自分でも小説を書くようになると、作品の内容だけでなくて、その作家の執筆に対する思考などでもファンになったりすることがある。こういうのは純粋な読者にはない、もしくは少ないことなのではないかと思うと、それだけでも小説を書いているというメリットはあると思う。もちろん、小説だけじゃなくてマンガだろうが絵画だろうが音楽だろうが建築だろうが、何にでも同じことが言えるだろう。
 これは執筆を勧める宣伝ではないが、宣伝でもいいや。
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