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・読書
「文学なんかこわくない/高橋源一郎」を読んで文学がこわくなった。どうしてくれる。(答え:どうもしません)
 あと2009年夏季号の文藝に載ってる穂村弘と谷川俊太郎の対談を読んで、やっぱりこわくなった。どうしてくれる。(答え:どうもしません)
 両者に共通すること、前田のこわくなったポイントは「正しい/正しくない」ということ。文学の正しさ。詩の正しさ。
 正しいってなにさ。正しい、正しくないということが文芸にもあるのか? あるのだろう。この正しさ、科学と同じ正しさではなく、政治の場の正しさと同じような気配がする。それがこわい。ギャー!

 ところで今期の文藝の目次を見ると、書評に「世紀の発見/磯崎憲一郎」が取り上げられていた。書評の著者は……佐々木中。保坂和志のwebサイトの掲示板を覗いている自分としては、強烈な組み合わせであった。
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・妄言の類
 なんか無駄なこと書きてえ。とはいえ、実際に何か書くことがあるわけでもなく、こうして無駄にバイト数を消費するのみで、なるほど、これが無駄か。とか思う。本当に無駄になるなのは容量ではなく時間である。
 例えば今日の記事タイトルに鯖という単語を入れているが、これに意味はない。理由はよく分からないが、前田にとって鯖というのは意味がないことを象徴する言葉であるような気がするのだ。


・読書
「夜戦と永遠/佐々木中」を読み始めた。購入に協力してくれた後輩に感謝。
 保坂和志が自身の掲示板で「すごいすごい」と言っていたので、中身もよく知らないまま買ってみた。どうやら哲学、精神分析に関する本、らしい。副題にラカン、フーコー、ルジャンドルとあるから、そうなのだろう(しかしフーコーもルジャンドルも物理でよく聞く名前である。無論、この本で述べられている人とは別人だ)まだ良く分からないが。
 とりあえず序文を読んだが、ここだけでもう見事なことが書いてあった。何かというと「書くことの効果」とでも言うべきか。「最初から書かれるべきことが完全に頭の中に合ってそれを出力するだけならば、書く意味はない」というような感じのことが書かれていた。この辺りも、保坂和志が薦めている理由の一端なのかもしれない。
 さて、前田はいつになったらこの本を読み終わるのか。かなり苦戦する予感。
・コメント返信
>kisaさん、Rufuさん
 お二人の意見が全く矛盾していないのが凄い。純愛は奥が深いですね。

>altさん
 マジカルなんたらワード。あれですか。USBメモリが五万円でもヴィトンが出せば売れるみたいな感じですか。


・周辺
 猫のみぎゃー!みぎゃー!が良く聞こえてくる。


・座禅
 ZAZEN BOYSなるバンドのhonnojiという曲が何かすげえ。
 らいーふ。らいふいんざぉーたー。
 らいーふ。らいふいんざこーるどぉーたー。
 古川日出男ファンは向井秀徳ファンにもなっておくとお得。
・ピュア
 よく「純愛」とかいう言葉使われる。純愛小説とか。けどよく考えたら「純粋な愛」の意味が分からない。愛という感情の範囲は人それぞれだし、愛は単一の感情だというには複雑だろう。
「人間に対する好きという感情」は愛の一部ではあるが、これを以って純愛とする、つまり「好きという感情」だけを取り出してくると、これは愛でない。例えば好きなだけなら、付き合ったり結婚したりする必要がない。しかし実際の純愛物は恋人関係云々がドラマの中心になっているのではないか。
 以上のことより「純愛とは純粋な愛のことではなく、純愛という、また別の感情である」ということがいえる。または愛の強調表現として純愛という言葉があるのかもしれない。


・携帯
 七年間くらい使い続けた携帯をついに変更した。その結果、使わない機能を使えるようになった。電源を切った後、起動するのにやたら時間がかかるようになった。使いにくくなった。重くなった。そしてかなり薄くなった。
 この薄さが何故か面白い。薄いという触感が面白い。前田の知らなかった感触である。


・ギター
 始めてから四ヶ月くらい経った。大して上手くなってもいない。
 それはそうとギターの単純な練習が思いの外面白い。既にある譜面をなぞっていくという行為は小説を書くということと全く違う。
 違うというのは単純に創作性の問題で、小説は創作だが(前田にとっての)ギターは創作では全然ない。ポイントは繰り返しで、ギターの練習とは演奏者のrepeatabilityを上げることだ。小説においてはそのような考えをしない。
 この、repeatabilityを上げていくという過程はなかなか面白いし、楽しい。前田はシューティングゲーム(STG)が好きであるが、その理由もまたrepeatabilityにある。だから前田の最も好きなSTGは斑鳩にである。
・同時進行
 歌いながら文章を書くということをやってみた。曲は歌詞を全て憶えているもので、文章を書くというのは既存の文章を写し取るということである。個別にやれば難しくも何ともないが、同時にやるだけでかなり難易度が上がる。
 ポイントは、少なくとも前田は違うことを同時に思考できないという点。歌と文章を頭の中で細かく切り替えながらやっていくと、何とか、できないことはない(それでも歌詞をミスったり打ち間違いをしたりする)。
 普段しないような思考法だったので、なかなか面白かった。ギターボーカルの人は、要はこういうことをミスなしでやっているんだろう。恐るべし。


・読書
「百合/川端康成」読了。「掌の小説」に入っている掌編のひとつ。今作が衝撃的に面白かったので買った。
 この作品にも比喩でないということの面白さが詰まっている。最後の一文がそれで、比喩と捉えてしまうと面白さが半減してしまうような気がする。その意味で今作は非常に映像的だ(主人公の行為に視覚的な描写が多いのは伏線の一種なのか?)。
 非常に短いがストーリーとしてきっちり起承転結をつけているのも面白かった。ちゃんと起伏がある。
 あと、前回の記事と繋がってくる(気がする)ことがひとつ。「小説家になる!/中条省平」では感情の相対化が文学の基本だというように書かれていた。しかし今作は相対化されていないようだ。語り口こそ淡々とした三人称であるが、主人公からの視点しかなく、相対化はされていない。
 相対化されていないということが、それはそれで面白かった。しかし「比喩ではない」という面白さとやや競合しているようにも見える。つまり「主人公からの視点しかない」ことによって「比喩の可能性が生まれてしまう」のではないか? 非相対的ということと比喩でないということが個別に読むと面白いが、纏めて考えると面白さが減ってしまうという不思議。前田が同じような掌編を書くならば、この辺りを改善したい。
 ということで、書くことにする。
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