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・ふと思った
 小説には「感情を相対化する」という技術があるが(夢十夜の醒めた感じ、といえば分かりやすい)、前田は何故この技術を使うのかを考えたことがなかった。つまり、或る作品について「何故相対化しているのか?」と問うたことがない。
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・供養
 何かもうダメだと思ったので、自作のダメな感じの小説を上げることにする。小説の供養。どこかちゃんとした所に提出できないようにする、ということでもある。




 どうやら三日前から雨が降り続いているらしい。くぐもったような水の音が聞こえている。水の匂いもする。外に出るには傘が要ると思った。
「もうじきあの子が帰ってきますから、待っていてください」
 語尾が溶けて消えていくような、高い声が聞こえた。人が傍にいる気配もあった。自分以外の身体があるだけで、どうして気配などと曖昧なものを感じるのだろう。息遣いだろうか、伝播する体温だろうか。いずれも微かなものに変わりない。人一人分の空気がこちらに迫り出しているからかもしれない。
 顔を向けようとすると、首の皮の引っ張られる感触があった。頭蓋というのは思いの外重量のあるものである。同時に背筋の曲がっていたことに気づいた。筋肉が弛緩している。
 私にはあの子とは誰のことなのか、とんと分からなかった。疑問を口にすると舌の縁に唾が滲んだ。喉の中が震えたようだった。掠れるしか能のなさそうな、頼りない震えだった。大声を張ろうとすれば難儀するだろう。私は困惑した。
「あの子はあの子じゃないですか」
 また声が耳についた。先よりも低いようだった。言葉の違いではなく、心情に根差した違いだろう。当たり前の質問に対する呆れが混じっているのだろうか。
 しかし私も名前など要らない気がしてきた。私の困惑はいつの間にか消えていた。もうじき帰ってくるのだからそれで良い。
 私は煙草を吸いたくなり、袂を探った。指が軽いものに触れた。からからと鳴った。
・読書
「浄土/町田 康」読了。短編集。
 初読で何がなんやら、という感じだったので二読したところ(とはいっても「犬死」だけだが)、テーマのようなものが分かった。
 テーマが自分の中に明らかになるということ自体はいい。問題は、一度気付いたテーマからの観点のみで作品を読もうとしてしまうという点だ。つまり、読書の視点が固定されてしまう。思考が不自由になるということ。
 前田は「犬死」に「人間の内面と、人間を取り巻く外部の関係」という観点でのテーマを読み取ったのだが、テーマを発想して以降、作品の各部分を全て上のテーマからでしか考えられなくなってしまった。
 思考が束縛されること。これがまずい。小説を読むということの豊かさが失われてしまう気がする。これは「比喩が面白くない」ということに似ている。テーマによって小説が比喩されてしまっている。

 と、そんなことを思った読書になった。あと、町田康が町田町蔵だということを解説で初めて知った。
・コメント返信
>kisaさん
 ミステリ好きにとっては、やっぱりそっちの方だよな。

>無為さん
 グイン・サーガは確か完結してなかったと思う。あと何巻かは出せるだけの原稿溜まってそうだけど(栗本薫はかなり速筆だったはず)、完結まではいってないんじゃないかな。ファンにとっては残念な話だけど……。


・読書
「夏への扉/R.A.Heinlein」読了。
「孤高の人 6/坂本眞一」読了。
 今回、批判的な感想を書く。比喩について。「夏への扉」は冒頭の3ページについて思いっきりネタバレするので注意。「孤高の人」についても、単行本5巻と6巻の描写についてネタバレします。

 夏への扉、というのは作中で二種類出てくる。ひとつが猫のピートの探す扉。もうひとつが主人公デイヴィスの探す扉である。この二つの扉の最大の違いは、比喩されているかどうか。
 前者は比喩のない「夏への扉」である。作中で明文化されている通り、猫のピートは本当に「夏に繋がっている扉」を探している。今が冬でも、そこを開ければ夏に出ることができるという、そのままの意味だ。
 対して、主人公の探す「夏への扉」とは、本当に夏に繋がっている扉ではない。物語上で主人公が求めているものの比喩だ。
 前田は今作の冒頭を読んだとき「これは名作だなぁ」と感じたのだが、その理由は「比喩ではない夏への扉」にある。逆に、「比喩としての夏への扉」には面白味を感じなかった。正直に言えば、つまらないと思った。
 比喩でないということの面白さと、比喩であるということのつまらなさ。この違いは何なのか?
 ここで「孤高の人」の描写を持ってくることにしよう。
 5巻に、主人公の森文太郎がひとりで山の尾根を歩いているシーンがある。ここで、文太郎の「山が好きだ」「山を歩くのは気持ちが良い」といった心情表現として「白馬に乗って夜空を駆ける」という表現が成される。だが、前田はこの表現を「つまらない」と感じた。
 次に6巻。文太郎が山の夜明けを見るシーン。ここでは夜明けの美しさの表現として、オーケストラの演奏が同時に書かれている。この表現に対してやはり前田は「つまらない」と感じた。
 ふたつの表現の共通点は何かいえば、比喩である。白馬もオーケストラも、山を比喩するものとして書かれている。この比喩のために、山の素晴らしさが矮小化されてしまっている。「山にしかない魅力」が相当に除去されてしまっているということ。山を歩いて「白馬に乗って夜空を駆ける」ような気持ちになり、それが楽しい/気持ちいいというのなら、最初から白馬に乗ればいいし(まあ、夜空を駆けることはできないが……)、山の夜明けを見てオーケストラを聴いている心地になるのが良いというなら、山に登らずオーケストラを聴けばいいのだ。
 山の素晴らしさを比喩で表現されても、尾根を歩く→乗馬、夜明け→オーケストラといった「イメージの置き換え」が生じるだけで、山そのものが伝わらない。比喩の功罪といっていいのではないだろうか。喩えることで「分かりやすい別のもの」として伝えることができる一方で、そのものを伝えることはできていない。比喩によって、山に「乗馬」「オーケストラ」といったイメージを付加させていると同時に、「山それ自体」のイメージが除去されてしまっている。そのために山に対するイメージが膨らまず、矮小化されることになってしまう。
 以上のような「比喩による矮小化」に類することが「夏への扉」でも起こっているのではないか?
つまり、物語を通して表現された主人公の求めるものが単なる「夏への扉」という言葉に矮小化されてしまっているから、「主人公の探す夏への扉」がつまらなく思えてしまうのではないか?
 以上が「比喩であるということのつまらなさ」なら、「比喩でないことの面白さ」は何か? 単純に「矮小化」の逆、いうなれば「イメージの拡大」か?
異化が「イメージの拡大」の一種ならば、なるほど、当てはまりそうである。

 と、まあ、批判的に書いたが、以上のことが「夏への扉」の面白さにどれほど影響するかといえば、殆ど影響しないだろう。ポイントは別のところにある。
・グインサーガ
 ひとつの時代が終わった感。前田は栗本薫の読者ではなかったけれど、「うえぇ!?」と叫んでしまった。


・言葉と思考の速さ
 前田の場合、考えるよりも先に言葉が出てくる、ということがある。例えば「二人の人が同じ対象を見ていたとしても、全く同じ様に見えているとは限らない」云々という考えをしていたとき、唐突に「そういう人間の在り方が神秘だ」という言葉が出てきて、自分で驚いたりする。「今まで神秘だなんて思ってなかったのに」
 ここでのポイントは、思考のプロセスを経ず、唐突に「人間の在り方」と「神秘」という言葉が繋がってしまった、ということ。沸いて出たような「神秘」という言葉により前田の中で「人間の在り方」のイメージが膨らんだ、という点である。
 イメージが膨らむというのは、思考が進むと言い換えてもいいだろう。つまり、言葉が先に生まれて、その言葉が思考を引っ張っている。
 こういう言葉を先行させる思考は中々面白いと思うし、小説にも応用できる。現に前田は「言葉を先行させる」ようにして小説のプロットを考えたりしたことはある(尤もそのときは「言葉を先行させる」などと意識していたわけではない=「言葉を先行させる」と明文化させていたわけではない)。
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