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・コメント返信
>無為さん
 ありがとう。なむなむ。

 聖家族はトップ10には入っていないけれど、投票はされたみたい。これまたmixiからの情報なのだけど。

 ミクロとマクロという言葉でいいかどうかは分からないけど、レッテル貼りということはまさに前田の言いたかったこと。個人にレッテル貼りをするのは差別に繋がると思うのだ(それ自体を差別ということもあるし)。逆に団体に所属する個人だけを見て団体全体を判断するのも愚行だしね。


・そういえば
 演技力は何となく凄いかどうか分かるけど、前田は歌唱力が分からないことに気づいた。そもそも「歌唱」力って何だ? 音楽って歌の部分だけで決まるわけではないし、それに歌うのが下手でも凄い歌っていうのもあると思う。
 同じく、文章力って、なんだろね?


・歌唱力
「グレープフルーツちょうだい/ゆらゆら帝国」という曲があるんだが、これはもう歌唱力云々は全く関係ないように思える。歌唱力はいらない、というか。しかしそれは「簡単に歌える」ということではなく「誰でも歌えるけど、カッコよく歌うのは凄まじく難しい」ということだと思う。
 技術・理論というのはその作品を良くする効能はあるけれど、凄いものにすることはできない、っていうことを前田は言いたい。
 ちなみにyoutubeではライブ映像しかみつからなかった。この曲はCD音源の方がカッコいいと思う。


・読書
「羊をめぐる冒険/村上春樹」読了。
 村上春樹は主人公の空気というか、感情の覚め方というか、その辺りが好きだ。今作もその、前田の好きな部分は、当たり前だが、発揮されている。
 で、その他の文学的要素は何なのか? これが分からない。
 そして分からないながら、ひとつ思ったことがある。つまり「どうして俺は小説を読んでいるのだろう?」
 そりゃ面白いから読んでいるというのもあるし、自分が小説を書くために読んでいるというのもある。それはいい。分かりきっている。問題は「読むことがどうして書くために繋がるのか?」ということ。または「どう繋げるか」ということ。
 単に「知らない世界を知るため」「理論・技術を学ぶため」とか、そういった認識だけで読書を続けていってもしょうがない気がした。

 さて、今作の中身について全く触れていないわけだが……。
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・執筆
 現在取り掛かっている作品がものすげえ難産。あまりの進まなさ具合のために、誰かに言いたくなったのでここで「難産だぁ!」ということを言っておく。だけど面白いはずなんだ……。


・本屋大賞
 ノミネート作品が発表されてた。
リンク>http://www.hontai.jp/
 本屋大賞に挙がる作品は大抵が面白く、人に勧めやすい。しかし、mixiにてある人がこんな意見を述べていた。
「本屋が売りたい本じゃなくて、本屋がたくさん売った本にあげる賞になってしまっているじゃないか」
 上のノミネート作品を見ても、確かになぁ、と思ってしまう。商売だから仕方がないといえば仕方ないのだけど、長期的に見たら「売れるべき作品なのに!」って作品が挙がってくれる方が良いのではなかろうか。既に売れている作品ばかりだと、そこから読者層が広がりにくいのでは? 新たな読者層を獲得するのは、まだ日の目を見ていない、しかし読書好きが選ぶような作品だと思うのだ。
 個人的なことを言えば、古川日出男がノミネートされてほしい。「聖家族」は読んでる途中だけど、すげえぞ、あれ。


・読書
「GO/金城一紀」読了。
 何故だろう。あまり感想が浮かばない。「大衆と個人を混同してはならない」ということを訓示のように思ったけど、それは小説の読みではない気がするし……。
 とはいえ「大衆と個人が混同して扱われる」、つまり偏見というものを扱うのは「個人の事情」「現実の人間はワイドショーで扱われるような単純なものではない」ということを描くのに使われるひとつの技術だろう、とは思った。
・コメント返信
>kisaさん
 いや、そういうつもりでもないんだけどね。「サクリファイス」にせよ「一瞬の風になれ」にせよ、マイナスポーツが題材で気になっていた作品だし。後者はタイトルが気に入っていたというのもある。
「ゴールデン・スランバー」は先輩に借りる機会があったから。


・ミステリについてのhow
 ふとした思い付き。新しいミステリを発掘しようとするおき、ミステリの定義とは云々を考えていくのではなく「何を以ってミステリと感じるか」「何を以ってミステリではないと感じるか」ということを考えていくことが大切ではなかろうか。
 その結果として生まれる小説がミステリではなくなっても、これは一向に構わないという前提だが。むしろ、積極的に「ミステリじゃない!」と言われるような作品になる方が、前田にとっては好ましい。


・読書
「異邦人/ALbert Camus」読了。窪田啓作訳。新潮文庫。
 これまた人間を描くことがメインになっている感じの小説(否定しているわけではない)。アオリに「不条理の認識を極度に追及した」とあったが、確かに、そういうことを描いているのだろう、と思った。そんなこと普通は考えないだろう、そんな行動はしないだろう、そんな人間を描いているように読めた。
 しかし前田としては主人公の思考が特に奇妙には思えず、むしろ陪審員ら、多数の人間の持つ主人公に対する評価の方が目についた。「個人の事情も知らずに歪められた情報によって、勝手な倫理を押し付ける」陪審員らが嫌だった。風刺に見えた、ということである。
 しかし多くの歴史に残る文学は風刺ではないだろう(この作品はカミュのノーベル賞受賞の理由のひとつとして挙げられるらしい)。風刺に見えたということは、単に前田が「個人の事情も知らずに歪められた情報によって、勝手な倫理を押し付ける」大衆が嫌いであり、そこに関心を寄せられているからに過ぎない。小説を書くときには作者が大なり小なり出てくるが、小説を読むときにも読者が大なり小なり出るものである。当たり前のことだが、その当たり前を実感できた。
 あと、この作品には多くの風景描写が使われている。これは保坂和志の言う「風景による思考」の一例じゃなかろうか?
・トリビア
「耳をすませば」を観て鬱になる人が「一瞬の風になれ/佐藤多佳子」を読むと自殺する確率はどれくらいなんでしょう。これって、トリビアになりませんか?


・読書
「一瞬の風になれ/佐藤多佳子」読了。一人称的タイトル?じゃなくて三人称的か?
 ものすげえ青春小説だった。同じくマイナスポーツ題材の青春小説の「DIVE!!/森 絵都」と並ぶ作品として前田は認知していたのだが、かなり違った。「DIVE!!」はストーリィがあって、ストーリィを読んでいく小説。良くも悪くも「劇」だった。対して「一瞬の~」は読者がひたすら主人公の中に入っていくような小説で、要は感情移入で読ませる感じだった。小説を読んでいるというより、小説を体験しているといった方が近い。前田は主人公の惚れている相手にうっかり惚れそうになった。原因はたぶん、その相手の描写が良いからではなく、主人公がその相手に惚れているからだろう。
 この小説にあるのはストーリィではなく主人公の目標だ。陳腐な言い方かもしれないが、人生の一部を切り取って小説にした、というような。問題の解決とか決着とか、そういう劇作論とは切り離されているようだった。
 読んでいる間が最も面白い小説で、読み終わったのが残念だった。終わりの文章が好きじゃないというのもあるかもしれないが。
 そして今作を読んでやっぱり思ってしまうのは「小説で描かれるのは人間」であるということ。恐らくエンタテイメント系の小説で人間が描かれなかったことは一度もない。純文学系を含めても極端に数が少ないだろう。小説を読む人間は人間に興味があるらしい。
・タイトル
 小説のタイトル(あるいはその付け方)を二種類に大別することができるんじゃないか?とか思った。つまり「作品の中にいる人間から見たもの」と「作品の外にいる人間から見たもの」。一人称的、三人称的、とでもいうか。
 前者は作品の登場人物からみた物語であって、仮に作中でそのタイトルが台詞なり何なりで出てきても違和がない。後者はその物語を作品として見ている人物=作者なり読者なりにとっての物語に付けられる名前だ。単語だけのタイトルは後者に属するものだと思う。
 以上のことをタイトルを付けるときに考えておくのは大切な気がした。え? 当たり前のことですか?
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