忍者ブログ
[17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

・コメント返信
 何なんだろうな。もっとも、どうやって危険度の算出をやってるかも分からないから、9%の意味も分からないんだよね。


・あ! こんなところに!
 山本周五郎賞が発表されていた。
リンク>第22回 山本周五郎賞受賞作品発表
 受賞者ではなく、候補者に目がいった。橋本紡がいる!


・素敵思考
 例えば小説に関して考えるとき、それが正しいかどうかで思考を評価するのではなく、素敵かどうかで評価した方が素敵だと、「君の夢 僕の思考/森 博嗣」を少々立ち読みして思った。
 ここでのタイトルはUnidentified Fantastic Thinkingとかにしようと思ったけど、Unidentifiedは不適当だった。かといって適切な単語を探すのはメンドイ。


・読書
「スモールプラネット/本城直季」を少し眺めた。写真集。kisaさんに感謝。
 俯瞰して見た町などの写真集。しかし単なる町ではなく、どれもがミニチュアのように見える。「何を撮るか」ではなく「どのように撮るか」の凄さ。
 特徴として、一枚の写真の中に複数のピントがある。これがミニチュアのように見せるための工夫なのかどうかは分からないが、ともかく、そういう特徴があった。そしてその複数のピントの存在が面白かった。普段の生活では見えない視点だからだ。
 もちろんわざとピントをずらして物を見ることは可能だが、ズレたピントの視界と合っているピントの視界は共存できない(少なくとも前田は共存させられない)。つまり前者と後者の視界は時間的にズレて存在するのだが、写真だと共存させることができる。時間が関係ないというか、時間の全体を撮っている、と言ってもいい。「全体」というのは恐らく「表現」ということを考えるとき重要なポイントになる概念で、その「全体」を写真上に表している。そこが面白かった。

 ところで、前田は数枚の写真を眺めた後、あとがきとか解説を探してしまった。言葉ではない写真という表現に対して、どうして言葉による解釈・解説を求めてしまったのか? 答えは安心したいから、だろう。感覚、感触、感情などの本来言葉で十全に説明できないものを言葉に定着させるということは、あやふやなものを確かなものにするということだ。曖昧を排除して人は安心を得ることができる。
 だが、表現者、創作者がそうやって安心してもいいのだろうか? 小説家だとしてもだ。
 分からない感覚を分からないというまま持っておく。或る観点においては重要なことだ。
PR
・ウィルス
 こんなやつが流行っているらしい。
リンク>通称「GENOウイルス」・同人サイト向け対策まとめ

 解の有る方程式は
リンク>GENOウィルスチェッカー
 でチェックした限り大丈夫でした。


・購入本
「SHORT PROGRAM GIRL'S TYPE/あだち充」購入。少女マンガとして描かれたものらしいが、SHORT PROGRAMならいいだろうと思い、買った。
 まず何よりも絵柄が古い! 初出がどうやら30年前の作品とか載っている。
・最近思ったことを簡単に
 ストーリーとキャラクタが不可分であるというのは小説作法でも良く言われることだが、文体がキャラに先立ち、かつ文体とキャラクタが密接に関わり合うということもあるのではないか? ここから、文体とストーリーも強く関わっていくのではないか?
 作品を書きながら、そう思った。結果は作品が書きあがってから。
・読書
「演技の基礎のキソ/藤崎周平」読了。演技に関する講義録。演技についての教本だろうか。具体的な練習方法なんかも書かれている。
 もちろん直接的に小説のことは書かれていないのだが(劇作の話もこの本には載っていない)、小説を考える役に立つような気がした。例えば、小説と作者の関係、キャラクタと作者の関係、など。
 本の内容が小説についてではなく、更に感覚的な話が非常に多いので、読む側は小説に還元しようとする際、ちゃんと考えて、解釈しなくてはならない。読者に思考を促してくるということはそれだけ鵜呑みにしてしまう危険性が少ないということで、有り難い話である。
 しかし前田はまだ、小説への還元をどうするべきかを纏められてないので、再読することにする。

 あと巻末に載っている「演技の基礎のキソを更に考えるための関連書籍」の中に「書きあぐねている人のための小説入門/保坂和志」が挙げられていた。やはりこの本は小説に還元できる……というよりも、「書きあぐねている~」と同じように表現の基礎について考えているのだろうと思った。
・コメント返信
>kisaさん
 映像化を想定して書く小説か。前田は一度書いたことあるが、表現の上の制限がつく、というくらいだったな。文章でしかできないことを盛り込むと、映像化したときにその面白さが消えてしまうし。その分、作品の魅力をストーリーに込めなければならないのだと思う。

>simo
 がっかり感? それは表紙絵がひどかったからなのか、また他の連載を始めやがって!と思ったからなのか。
 再開の期待よりも先に、アフタヌーン連載のACONYが完結することを祈るべきだな。


・詩人
 谷川俊太郎と覚和歌子の対談・朗読会に行ってきた。対談のテーマは言葉について。音としての言葉と活字としての言葉、といった話とか。
 詩も何編か朗読したのだけど、その中で「みみをすます/谷川俊太郎」がすごかった。以下、広義のネタバレ。
 この詩では遠い時間と遠い空間をこちら側(読者のいる時間・空間)に持ってくる、ということをしている。
 そもそもフィクションでは時代も場所も自由に書くことができる。「1898年ブラジルでのことである」と書いてしまえば、フィクションの中では1898年のブラジルなのだ。そうでなければ時代モノなんて成立しない。当たり前のことだ。フィクションでは時代も場所も自由に「作る=設定する」ことができる。
「みみをすます」で行っているのは、そういうことではない。1898年のブラジルを読者のいる時間・空間の上に作るのではなく(この場合、読者が向こうの時間へ行く、と表現するのが前田のイメージに合っている)、1898年のブラジルを読者のいる時間・空間に「持ってくる」。読者の時空が1898年ブラジルになるのではなく、読者の時空かつ1898年のブラジルになる。現在が過去と繋がるというダイナミズムが強烈だった。
 こういう、時間・空間を「持ってくる」というのは、言葉でしかできないんじゃないだろうか、という気になった。

 なお、「みみをすます」には1898年もブラジルも登場しない。
忍者ブログ [PR]