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・ちょっとした注意
 前回と今回のリアリティ云々の記事で用いている「リアル」「リアリティ」といった言葉は、一般に使われているものと用法が違うのである。


・続き
 サークルの先輩と少々話をしたので、前回の時点から前田の考えが多少変わっているかもしれない。その話からも時間が経っているので、やはり変わっているかもしれない。

 リアリティを、この場では、次のように定義する。ただし厳密なものではなく(前田はまだ厳密な定義ができない)、幾らか揺らぐ。
「リアリティ=読者が作品世界をどのようなものとして受け取るか」
 例えば手記形式。これは「作品が誰かによって残された手記である」というリアリティを持たなければならない。前田は手記形式を殆ど読んだことがないが、この系統の作品のキモは「書かれていることは、全て、本当に誰かが体験したことである」ということ(=リアリティ)から来る恐怖感なのではないかと思う。これは小説というメディアと相性がいい。読者は「読む」ことで内容を理解するからだ。

 このリアリティとリアルの関係について、少々言及しておこう。前田は、リアリティを出すためにリアルが必要になる、と考える。社会派ミステリには「本当に何処かで起きていそうな事件」というリアリティが要求される。従って、そのようなリアリティを出すならば、高いリアルが必要となるのは明らかだろう。警察機構がリアルじゃないのに「何処かで起きていそう!」と思う人は、多分、いない。ファンタジィでも同様のことがいえる。「そのような幻想世界が存在する」というリアリティを出すならば、現実の人間の社会に関するリアルが絶対に必要になる。

 さて、作者が考えなければならないリアリティについての問題とは何か? 前田は次の二つを挙げる。
1.如何にしてリアリティを出すか
2.どのようなリアリティを選択するか
 前田は後者が特に重要であると、現在考えている。
 個人的な話になってしまうが、以前の前田は、究極の小説を次のように考えていた。
「読者が、自分は作品内に存在していると錯覚するような小説」
 つまり、作品内の世界は本当にあって、読者はその世界を体験しているというリアリティである。前田は、これは正しいと、今でも思っている。そのような小説は、まず間違いなく面白いはずだ。
 しかしそのような小説を書くことはできない。技術の問題ではなく、原理的に不可能だ。当たり前である。読者は小説内の世界にいない。殺人を目撃したり、素敵な恋人と巡り逢ったり、金銀財宝を探しているわけではない。「作品にのめり込む」という言葉はあるが、それは読書に集中しているだけである。「読者が、自分は作品内に存在していると錯覚するような」リアリティは、突き詰めようとしても、原理的な限界が存在するはずだ。
 ではどうするか?
 上記の問題を「如何にリアリティを出すか」ではなく「最高のリアリティを発揮できるのは、どのようなリアリティの場合か」と解釈し直す。これは「速く移動するには、何を使えばいいか」という問題に似ている。100mを9.74秒以内に移動するには、自動車を使えばいい。小説が作り物でしかなく、読者を錯覚させることができないなら、作り物としてのリアリティを求めればいい。
 これが、古川日出男のフィクション宣言の本質である(尤も、前田が勝手にそう感じただけだが)。
 そして「小説は作り物であるというリアリティ」以外にも、突き詰めることのできるリアリティがあるはずである。前田はそれがどのようなリアリティなのか、分からない。分からないが、それを探索することは、新しい小説の開拓に繋がることだと思っている。


・読書
 執筆中は読書量を減らすべきだという判断から、最近は小説を読んでいない。だって読むと影響されるしさー。場合によっちゃ凹んで、モチベーション減衰するしさー。
 ああ、しかし「ハル、ハル、ハル/古川日出男」読みたい。
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