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・果たして達成出来るやいなや?
 久々にこのブログの過去ログを読んだ。懐かしかったり時間の経ちっぷりにいわく言い難いものを感じたりしたが、それはともかく小説の感想で前田が何を言っているのか分からないところが幾つかあって困ってしまった。何だコイツ。何を言いたいわけ? 第三者が分からんのならまだしも(それもホントはダメなんだろうけど)書いた本人が思い出せんのはまずい。
 伝わらない・思い出せない感想になってしまっている理由は明白すぎるくらい明白で、言葉が足りていないからだ。
 じゃあ言葉を増やせばいいじゃないか、ということになるのだが、べつに前田は書評家でも評論家でもないので感想・評価に多くの言葉を割くことはないではないか。
 ということで、今度から小説の感想は自分で小説を書くことで以て行ないたいと思う。
「一億三千万人のための小説教室/高橋源一郎」でも小説を書くにはまず「既にある小説を、赤ん坊が言葉を真似るように、真似すること」が大事だと書かれていたではないか。
 あとは本当に小説で以て感想を書くことができるかどうか、だ。エンタメ作品の劇作論とかは無理だろうなぁ……。
 それに更新頻度も落ちるだろう。これは仕方ないや。
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・映画のこと
 とある自主制作映画団体の撮影に参加した。手伝いおよびちょっとだけ出演。
 多人数でひとつのフィクションを作ったり、映像表現を作ったりしたことがなかったので、なかなか新鮮な体験だった。

 多人数で作るというのは、これはもう明確に小説とは違っている……と思ったが、違わない点もある。
 全体の統括や撮影したシーンの出来不出来を、監督がひとりで決定するという点は小説と同じだ(一般的に監督ひとりだけの判断でOKが出るかどうかは知らない。今回の前田の体験に基づいた話である)。
 シーンを実際に創り上げているのは役者やカメラマンなどのスタッフであり、監督自身ではない。監督は指示を出せるが、スタッフは監督の意図に完全に忠実な動きをしないし、出来上がる映像もまた監督の意図に完全には合致しないだろう(これを完全にやってしまうのが、良い監督であり良いスタッフである気がする)。
 つまり監督は映画を全て制御できず、意図されていなかった何かが映画の中に表現されることになる……と思う。
 この作品観は小説にもある。
 作家はひとりで小説を書くし、頭の中にある文章を実際に書いていく。しかし作家は文章それ自体を表現したいのではなく、文章によって"何がしか"を表現したい。少なくとも、前田はそうだ(ここで"何がしか"というのはいわゆる小説のテーマとは限らないし、「登場人物の悲しみ」といった別の語句で表現できるようなものとも限らない)。
 だから作家は文章について試行錯誤し、最終的に出力された文章も作家の意図になかったものを表現し得る。映画と同様だ。
 意図せずに表現されたものを察知し、作品全体へ反映させるのが良い作家・良い監督だろうと前田は予想している。

 映画と小説の違う点としては、製作途上に自分以外がいるかいないかということが挙げられる。
 小説の文章を書いている横で誰かが見ているということはない(それともプロの場合は缶詰になると横から編集者に見られるのだろうか? 想像しがたいな)。
 映画は常にスタッフがいる。監督以外が製作途上で作品を見ている。
 岡目八目という意味合いも含んではいるのだが、自分でない目、もしかしたら観客かもしれない目が常に作品を見ているというのは、非常に良い。
 その目に意見を求めることも可能だし、意見が得られないとしても、見られているという事実は自作に対する反省の視線を監督に生むのではないだろうか。
 つまり、目を意識すると生半可なものは作れなくなる。"何となく"でシーンを撮れなくなる。
 製作自体はとても難しくはなるが、クオリティは上がるはずだ。考えを煮詰めるのに一役買うわけである(考えが煮詰まる、というのは袋小路に陥るようでマイナスの印象を持たれるが、徹底的に考える=完成へと近づくという意味でもある)。

 もうひとつ、小説と映画の共通点。風景を使うが、自然の風景"そのまま"を使うとは限らないという点。
 映画では光の具合などを調節しないとならない。小説では登場人物の目を通す。いずれも生の風景ではなくなっている。
 ……と、簡単に書いてしまったが小説における風景の問題は(そして映画における風景の問題も)簡単に片付かない。この辺りの話は「小説の自由/保坂和志」の「私の濃度」で触れられている。

リンク>Amazon「小説の自由/保坂和志」
・演技と演技でない状態
「三月の5日間」という舞台をDVDで観た。劇団チェルフィッチュ。作・演出は、あの岡田利規。小説版は既に読んでおり、そして非常に面白かったので演劇の方にも興味があった。
 それで観てみたのだが……何だこれ。岡田利規は何を考えているんだ?
 話としては「アメリカがイラクを空爆した2003年3月に、ライブハウスで出会った男女が渋谷のラブホテルで5日間セックスしまくり、ホテルを出た後はもう合わないと決める。戦争はまだ終わっていなかった」となる。
「戦争はまだ終わっていなかった」の辺りに何か思うことはあるのだが、観てみるとそんなものは吹っ飛ぶ(小説版もそうだった)。
 話どころではない、というか、"演劇どころではない"のだ。
 フィクションの楽しみ方として「ストーリーに着目する」「キャラクタに着目する」「テーマに着目する」といった方法があると思う。しかし「三月の5日間」はストーリーやキャラクタやテーマといった、フィクションであることを前提にした側面に着目できなくなる。つまり「演劇(フィクション)なのか演劇でない(ノンフィクション)のか」という側面に目が行ってしまう。

三月の5日間の一場面

「三月の5日間」では場面がころころ変わっていくのだけど、その場面転換の度に役者が解説をする。「今から○○っていう場面をやります」とか「あと十分後に休憩にします」とか、そういうことを言ってしまう。そしてその解説の口調・態度と何ら変わらない口調・態度で演技を始めてしまう。
 始める、と表現はしたけど、そもそもどこから演技が始まったのかよく分からない。となると、場面転換もどの時点であったのか分からない。シームレスすぎる!

リンク>チェルフィッチュ
・比喩可能な音楽の例
 今更、というほど遅くもないが「Revolutionary/9mm Parabellum Bullet」を聞く。
 前田は9mmに対して激しい音楽をやるというイメージを持っていたが、本アルバムに収録されている曲は結構幅がある気がした。激しいのから穏やかなものまで。
 今までのアルバムもそうだったのかもしれないが、少なくとも今回は幅広さが印象に残る。
 あと、シャウトという観点で「凛として時雨」と比較すると面白い。時雨のシャウトは高音で、長く、響く。9mmのシャウトは低音で、短く、破裂する。
 このふたつのバンドが「刀(またはナイフ)と銃」という比喩で比較されるのも納得。

リンク>9mm Parabellum Bullet official MySpace
リンク>凛として時雨 official MySpace


・場
 割と前に映画「マッハ!弐」を観た。アクション映画である。前作の「マッハ!」のアクションが気に入っていたので、今作も観てみようと思った次第。
 率直に言ってつまらなかった。理由はアクションが行われる状況にある。
 前作「マッハ!」はアクションシーンに至るまでのストーリーがあり、そのアクションが行われる理由が明確にあった。
 例えば「大量のチンピラに目を付けられ」て「逃げる」というアクションシーンが展開される、などだ。逃げなければならないという状況があるからこそ、逃げるというアクションになる。
 観客はこの明確さがあるから、素直にアクションシーンを楽しめるのではなかろうか?
 今作「マッハ!弐」にはこれがない。いきなり「アクションが行われるべき場」になるため、そのアクションになる理由が分からず呆然となってしまう。ただアクションそのものの出来栄えを観るしかなくなってしまう。前田が今作を「主演のPVだ」と評する理由だ。

 前田は以前まで「アクション映画はまずアクションそのもの有りきで、アクションが素晴らしければつまらなくなることはないだろう」と思っていたが、この考えは間違いな気がしてきた。
 きっとアクションという楽しみの核を楽しむためには、その状況、場という土台が必要なのである。
 核と土台という考えは恐らくアクション映画に限らず、全てのフィクションに適応できるのではないだろうか?
 重要なのは、面白さだけでは作品が成立しないという意識ではないか?
・視線のこと
 夏場は雲がデカくなるので、デジカメで撮影した。写真は小説で風景を描くときの資料にもなるはずである。
 
 自分の眼で見る風景とデジカメを通して見る風景は印象が異なる。見える範囲の広さ、焦点の違い、スペクトルの違いなどが原因だろう。つまり、視覚的な差異があるために、眼とカメラでは印象が異なる。つまり、視覚の上で印象の差が生じる。
 その他に、印象を変える要因はあるだろうか?
 多分、他の感覚にも要因がある。視覚以外の触覚、聴覚、嗅覚、味覚のことだ。
 例えば振り向いて背後の景色を見るのと、振り返って背後の景色を見るのでは印象が違う。しかしカメラに収めてしまえばどちらも同じ景色だろう。
 これは体勢の違い=触覚の違いが印象に影響を与えるという例である。実際にはこれだけでなく他の感覚も含めて風景の印象が作られることになる。風景には肉体が介在する、といってもいい。
 カメラで風景を撮るときの難しさは、普通の目線が肉体を使っているという事実にあると思う。カメラのファインダに肉体を介在させることができれば、良い写真が撮れるのではないかと前田は勝手に考える。
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