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・44歳
 ホンモノに会ってきた。
リンク>the coffee group 『ワンコインからワンドリップ』
 古川日出男氏の誕生日に合わせたイベント。
 古川氏は小説家であるが、結構前から単に執筆だけでなく、自著を観客の前で朗読する「朗読ギグ」イベントをやったりもしている。音楽の生演奏を伴って行うのが基本のようで、今回、音楽は蓮沼執太氏らが担当した。
 前田が朗読ギグを観たのは今回が初めて。
 面白かったのが、この朗読ギグが人間の感覚を総動員して観賞するものだったという点。coffee groupとあるようにコーヒーが振る舞われたり、演奏中にコーヒー豆を炒るといった演出があったのだ。
 朗読、音楽は聴覚に来る。音楽は触覚にも来る。照明や演奏者たちの姿は視覚で、コーヒー豆の匂いは嗅覚にも味覚にも来る。コーヒーを飲んでいればもちろん味覚だ。
 更に小説、言葉という抽象を受け取るのは五感ではなく脳の言語野である。
 読まれた小説はコーヒーについて。
 ここまで人間の身体を使わせる表現媒体を前田は初めて体験した。
 また朗読には小説だけでなく、新聞も用いられた。
 新聞の文章なんて無味乾燥で小説的に(ノンフィクション的に?)面白くないのであるが、こうして朗読ギグの場で読まれると面白い。何が面白いか? 新聞で読まれるその内容ではなく、朗読という表現が、だ。ライブの一部として発声される音として、面白かった(こういう観点が生まれると、やはりフィクション/ノンフィクションの区別に対する意識が生まれてしまう。それは少なくとも前田にとっての、古川作品のひとつの真骨頂だ)。
 
 他にもその場で短編小説をカップに書いていくなども。全部で75のカップに短編小説の一部が書かれていき、全部つなげると一本になる、という趣向。前田も自分のコーヒーカップに書いてもらった。
 作品自体はtwitterで読める。
リンク>1C21D

 僅かであるが古川氏本人とも話をできた(あのタイミングで便所に向かうことになった俺の尿意に感謝する!)。上記の小説書きの一時休憩中といったタイミングで、全然、小説について訊いたりとかはできなかったのだけど。
 来年、またあれば参加したい。 
 だがしかし、ペンが水性だったのか、前田が家に持ち帰ったのち、書いてもらった文章のかなりの部分が掠れてしまった。これほどの悲しみはここ数年、体験したことがない。
 あまりに悲しいのでこの出来事をタネにして短編小説を書き始める俺。


・短歌
 最近、PCが壊れてストックしていた短歌のネタが全消滅したこともあり、短歌詠みに意欲がなくなってしまった。まあ、韻律を丸っきり無視したり、短歌そのものに情熱があったわけでもないのだけど。
 PC破損は韻律をちゃんとしようと思って、ちゃんとした短歌を詠み始めたタイミングでもある。
 短歌についてはちょっとしたターニングポイント中、といったところか。
 

・ジャッキーとかトニーとか
「ジャッキーのアクション映画はもはやノンフィクションだな」という旨の発言を見かける。すげえ納得できる。
 アクション映画は他の媒体に全く移せない表現のひとつだと思うが、その本質は上の発言にあるのだろう。
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・art
「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」に行って来た。写真とかオブジェとか映像作品とか、色々なものがあった。
 その中で特に面白いと思ったのが、「CDのコピー」。
 ビートルズとかジューダス・プリーストとか、著名な音楽家のCDのコピー品をずらりと並べている、というような作品である。
 ここでのコピーとは転写ではなく模写である。つまり、CDのラベルやジャケット、ライナーノーツなどを全て手書きでコピーしてある。そしてこのCD、ちゃんと聴けるのだが、中身は作者自身の声によるコピーだ。ベートーヴェンの第九を鼻歌で収録していたりする。
 さて、鼻歌はひどい。聴けたものではない。
 ラベルやジャケットのコピーは上手いが、技術的にすごいだけで、コピーはコピーだろうと思う。
 しかし「作者はこのようなコピーが好きだ」というような文句もあって、ここから想像が広がった。つまり「このようなコピーを量産して飾りまくる作者の心境とはどのようなものか?」
「美術品とは作者の作品製作中の心境の残滓であって、だから同じ芸術である小説や音楽と違い、コピー品に価値がない」。この言葉をまさに体験させるような作品だったように前田は思う。

 他にも面白かった作品はあるのだが、上記のように「ここに面白さがある」と明文化できるものは殆どなかった。
 ただ、作品を小説という形でしか創ったことのない身としては、美術のような視覚的表現を創る思考はどうなっているのかと気になる次第である。

リンク>六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?
・「呟け!」って命令されて勢い余って大声で呟いた
 twitterで短歌(と前田は言い張っている)を投稿する作戦を開始。目標は1週間に2本のペース。
 前田の中では短歌の書き方は二種類に分類できて、その分類というのはつまり「一枚絵」か「ストーリー」だ。短歌は一般に小説よりも短い文字数となるため、発想だけで書くことも可能だと前田は考えている(この方法でどこまでの面白さが得られるのかは分からないが)。これが「一枚絵」の書き方。この小説にはないやり方というのが面白く、twitterでは「一枚絵」の方法で詠んだ短歌が増える気がする。
 しかし自分の感想としては、「ストーリー」的に作ったものの方が面白くなることが多い気がする(統計を取ったわけではないが、面白い/尾面白くないという評価は印象の問題なので、統計的に正しくある必要はないのではないだろうか)。できるだけ「ストーリー」的短歌も作りたい所存。


・お勉強
「物語の構造分析/ロラン・バルト」にてお勉強中。多分一年以上前に買って、そのときは冒頭の時点で理解できていなかったので積んでいた。今読んでみると理解できて、なるほどとも思える。
 読み書き両方の方法論として構造分析は実践可能だけど、この方法に囚われるとマズい、とも感じている。構造だけがフィクションではないということ。
 あと「13日間で「名文」を書けるようになる方法/高橋源一郎」を購入。しばらく実践してみることにする。


・読書
「LOVE/古川日出男」読了。文庫版。
 ハードカバーで発売されたのがおよそ5年前。前田が初めて今作の冒頭を立ち読みしたのは何年前なのか分からないが、そのときは「一人称の古川だし、ハードカバーだし、買うのは止めておくか」と思った(前田は、古川日出男文体の真骨頂は三人称だと考えていた)。買えよ俺。書き下ろしも文庫版あとがきもあったからいいけど。
 問題はこの作品を評価できないこと、考察できないこと。面白かった。けどそれ以上のことをここに書けない。無念である。
・歌っていうからにはロックにもなるはずだ
 短歌を詠んでみようか、という気分になっている。twitterで短歌を呟き続ける計画。果たして実行されるか否か?


・読書(ネタバレあり)
「生活/福満しげゆき」読了。作者はエッセイ漫画で活躍していて、その中で「バトル漫画を描きたい」というようなことを書いていたが、バトルも面白いじゃないかと思う。
 真っ先に目に付いた面白さが「街が舞台となっている」ということ。普通のフィクションは空間の何処かが舞台となっていて、その何処かというのは例えば街の一部であったりする。しかし少なくとも前田は、そのような街の一部を舞台としているフィクションを読んでいて、街があるということを意識しない。現に描かれている場所が注目すべき場所で、そこ以外にも場所があるということを意識していない、ともいえる。街を点的に捉えている、といったところか。対して今作は、街を線的(もしくは平面的)に捉えさせようとする。これは主人公ら登場人物以外にも人がいて、人が活動しているという認識だ。ギャグテイストで入っている「彼の人生において彼女と会うことは二度となかった」というナレーションは、街全体に意識を向けさせる原因のひとつだと思う。ギャグテイストとはいえ、今作に於いてかなり重要な演出ではないだろうか(前田は谷川俊太郎の詩の一説を思い出した)。
 コマのところどころで同じ人物が登場しているなどは、街全体へ意識を向けさせる方法だと思うが、決定的でない。これだけでは群像劇で「こことここが繋がっているのか」というカタルシスと変わらない。大切なのは繋がっているということではなくて、繋がっていないがある、ということだ。
 アクションについてもかなり面白く感じた。動きかっこいいし。絵柄自体は(エッセイで見慣れているせいもあるだろうが)、シリアスなバトルものっぽくないと思うのだが。そして絵・描き方を除いた点で面白かったのが、超人的な動きをしながら一方でやけに現実的なヘマをやらかすというところ。普通の漫画ならきっちりキメるところをキメられない。喩えるなら仮面ライダが変身中にやられるようなものだ。この一般人的というか小市民的というか小規模な感じ。街という舞台だから超人的な動きはある意味でそぐわないのだけど、小規模であることを主人公たちは自覚してもいる。小規模なヘマには「そぐわない」、もっと有体にいえば「中二病」という批判を打ち消す効果があるのではないだろうか。
 あと、ヒロインの存在が不思議だった。どうして前田はこのヒロインにマイナスの印象を持たないのだろう?

 それにしても、福満は(ネガティブな意味で)変な人間の風体を描くのが上手いな。
・読書
「グレートジャーニー 人類5万キロの旅 1/関野吉晴」読了。
 昔テレビでもやっていた、探検家関野氏の旅行記。放送されるたびに見ていた。その回の放送が終わってしまうのが残念と感じるタイプの番組で、今思えば、前田が初めてプロセスを最も大切にしたのは、このグレートジャーニーの旅行記なのかもしれない。
 本だと、写真は時折挿入されてはいるが、視覚的に物足りない。これはもう完全に体験の問題だと思う。全くの未知の自然を文章から体験することはできなかった。ただテレビで放映されていたような光景を思い出しつつ「厳しい自然」という、自分の体験の延長直線状にあるようなものは想像できたし、面白かった。
 関野氏の興味は自然ばかりではなく、そこで暮らしている、自然と共存している人たちにも向いている。文化人類学の教授でもあるし。今作でもやはりその面は強く出ていて、というか、現地人の暮らしの方が比重が大きい。
 これまた当然のことであるが、南米アフリカの奥地で暮らす人と自分のような日本人の文化・文明は全く違っている。この違いがかつては先住民に対する迫害に繋がってしまったのだろうが、勿論、この違いは人間の優劣にはならない。ただの多様性である。人間が生きるための手段はひとつだけではなく、色々あるという多様性。アマゾン川流域で生きる方法と日本の都会で会社に勤め生き方の差は、日本人Aと日本人Bの生き方の差とそんなに違わないのではないか? 例えばホームレスと呼ばれる人たちでもそれはそれで生き方の多様性のひとつであって、その方法を選んでいるということと、前田が会社に勤めるという生き方を選んでいるということには、なんら差がないというか、それはそういうもので、人間としてまたは生物としての価値を決定する一因ではないのではないか? 逆に生きているという実感(リアリティ)があるならばホームレスの方が生物として正しいといえる可能性もある。こういうこと考えていると、なんか社会人っぽいよね。
 また想像力の話に戻るが、読んでいる途中、地名が出てくるたびに前田は地図で確認したくなった。「どのような場所・環境なのか想像できない」ため、その想像の補助として地図を見たい、ということだと思う。しかし地図で場所を確認したからといって正しくその環境を想像できるわけでもなく、少なくとも前田にとって「地図を見たい」というのは「俯瞰した(外からみただけの)情報を手に入れて分かった気分になりたい」というだけのことではないか、と思った。想像するということに対する怠慢に思える。また前田は同時に「カフカの凄いところは、外から見るという意識が全くない点だ」という保坂和志の言葉を思い出していて、この言葉は「地図を見たい」という欲求と繋がるところがあるはずだ、とも思うのであった。
 そして「アメリカ/フランツ・カフカ」を読むのだ。
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