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・コメント返信
>kisaさん
 ミステリと見せないミステリ作家なんかな、近藤史恵。「サクリファイス」では冒頭からそういう印象は受けなかったけれど。


・オーケストラの感想
 指揮者というのは非常に重要な役目だとは知っていたが、重要だと実感したのは実際にコンサートを注意深く聞いてからのことだ。その実感はコンサートでなければ得られないものだっただろう。というのは「生演奏には生演奏にしかない‘空気’があるから」という抽象的な理由ではない。指揮者や演奏家の動作が見えるからというのが理由である。鳴っている音がきちんと人間の動きに対応しているという統一感が面白く、ここに指揮者の重要性があるのだろうと思った。だから指揮者の重要さが実感できたとはいっても、演奏者としての実感ではないので、本当はもっと別の意味で重要なのかもしれない。
 そのような統一感というのは小説を書く上でも恐らく大切なことで、何故かといえば、小説の情報というのはパラレルに伝達されるものではないからだ。「放課後の音符/山田詠美」で前田が感動した一文に「全ては同時に起きている」というものがある。この文章にある感動は、小説(文章)がシリアルなものであるということを前提としている。統一感というのもパラレルな情報に由来したものだ。
 現実がパラレルだから小説もパラレルを目指すべきとは言わないが、少なくともその差について考えながら小説を書くことには意味があるはずだ。
 差分について考えるということをもう少し拡張すると「言葉は現実を何一つ伝達できない」ということに至る。上記の前田の感想・実感だってそうだ。読者は前田と同一の実感を持つことはできないだろう。前田は理由と結論を書いているだけで、前田のコンサートでの体験というのは、このblogの読者は得ることができない。
 小説だと、作品の目指すリアリティにも依るとは思うが、言葉で現実を伝達するために、言葉を費やすことになる(費やすというのは沢山の言葉を使うということだけには留まらないだろう)。

 余談になるが、ジョン・ケージの4:33は、上に書いたような統一感の面から聴いてみると、前田には凄い作品に感じられた。


・オーケストラの感想に必要なこと
 と、まあ、感想に書いたようなことを意識しつつ小説を書きたいと思う。


・読書
「壁/安部公房」読了。難易度高え。「これはどういう意味か」「これは何の暗喩か」といった読みが簡単にできてしまいそうな作品だった(恐らくそのような読みの方が難易度が低く、同時に文学の読みではないと前田は思っている)。そんなわけで感想さえまともに持てず。
 しかし石川淳の序文の方が面白かったとはどういうことだ。
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無題
ジョン・ケイジ「サイレンス」はそのうち読みたいが定価が高くて二の足を踏んでいる。それにしても「私が死ぬまで音は~」のくだりは、非常に含蓄がある。
empty 2009/01/09(Fri)00:43:47 編集
無題
前田が語っている言葉は前田自身にさえ通じないものなんだよ、ってデリダが言ってたような気がする。そして、壁は話の展開に弄ばれるかのようにあれよあれよと読んでいくのが楽しいと思う。
Rufu 2009/01/09(Fri)01:18:15 編集
無題
じゃあ、機会があればまた行こうね☆
kisa 2009/01/09(Fri)17:37:17 編集
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