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・コメント返信
 音読しながらの執筆、意外に反響ありましたね。プロの人もやっているとは初耳。なかなか有効な方法の様子。
 句読点打ちに使うというのは「小説を話す言語に近づける」という効能を目指してやるものでしょうか。これも書き方のひとつの基準になるかも。
 自分の「音読しながら」の狙いと考察はまた今度書くかもしれません。


・購入記録
 最近買った(もらったもの含む)本のラインナップがなかなか変則的。一部を書いてみる。
「演技の基礎のキソ/藤崎周平」
「百年の孤独/G・ガルシア=マルケス」
「優雅で感傷的な日本野球/高橋源一郎」
「equal BandScore/ACIDMAN」


・読書
「アメリカの夜/阿部和重」読了。
「火車/宮部みゆき」読了。
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・日記
 小説の執筆のとき、文章を声に出しながら書いていくと、捗った。だが、出来栄えとしてはどうなのか? とにかく今は書かないと話にならないと思うので、この方法で書いていくことにする。
・マイブーム
 windowsのサービスを切りまくったり、余計なエフェクトや表示を切りまくったりするのがマイブームになっている。少しでも軽くするのだ。
 現在、デスクトップにあるのはマイコンピュータとごみ箱のみ。壁紙は使いません。


・音楽的な意味で文学
 唐突だが、平野啓一郎、または町田康、或いは大槻ケンヂを目指すことにして、音楽を始めました。


・文学的な意味で音楽
 身体性、ということについて考えたい。スポーツと、楽器の演奏と、小説の執筆について(保坂和志は文学のポイントとして「身体性」という言葉を使っている)。
 人間は生きている限り身体を使うものだが、身体を使った結果という情報は、その身体の動きや感触を通してどれくらい脳にフィードバックされるものなのか? このフィードバック具合というか、結果と身体の感触の関係というか、その手のものはスポーツと楽器の演奏と小説の執筆で、結構違っているような気がする。
 まずスポーツ。これは……よく分からない。
 次に楽器の演奏。しかし前田は楽器の演奏についてサッパリなので、かなり想像。
 曲目を演奏する際には、まず楽譜(というよりは、理想とする音)があって、それに向かって演奏することになる。自分の指なり口なり足なり腕なりを使って、音を出す。身体の動きから直に音が出て、その音が理想の音と比べられる。どうやって比べるか? 出た音を耳で聞いて、頭の中にある理想と比べる。
 流れとしては「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→理想との比較」という具合か。身体と行為がかなり密接に関わりあっている。
 最後に小説の執筆。身体の動きを使って直に文字を書くことができる。この部分は楽器と同じように思う(音が文字かというだけの違い)。しかし小説の場合は「頭の中に浮かんだ文字を自由に書き出せる」という点で音と異なっている。楽器を演奏する場合には、頭の中にある理想の音を常に出せるとは限らない。演奏の技術とはつまり、理想の音を出す技術なのではなかろうか。小説の場合、文字を書くことは技術ではない。
 じゃあ、小説の執筆における理想というのは何のことなのか。文字や文章そのものに理想はなく、文章から受ける印象について理想がある。だから、身体を使って出力された文章そのものは、頭の中にある理想と「そのまま」比較することができない。書かれた文章を読んで、そこから印象を得て、その印象が理想的かどうかを判断することになる。流れでいえば「身体の動き→結果(文章)の発生→身体を使った結果の取得(文章を読む)→脳で結果を解釈する→理想との比較」となる。身体と行為は、楽器の演奏に比べ、密接でない。
 この、演奏と執筆における「身体と行為の密接さ」の差。ここに保坂和志の言う「身体性」の意味がないだろうか。
 ちょっと楽器の演奏のことに戻ろう。ジャズのモード奏法について。
 モード奏法というのは、前田はよく分かっていないのだが、要はアドリブのみ、というような演奏らしい。保坂和志は「文学はモード奏法であるべきだ」ということをよく言っている。で、モード奏法での「身体と行為の流れ」を考えてみる。こうはならないだろうか?(前田はモード奏法をやったことないので完全に想像である)
「身体の動き→結果(音)の発生→身体を使った結果の取得→今までの演奏の流れの把握、解釈→理想との比較→次の身体の動き」
 楽器の演奏であるが、解釈の部分がある分、小説の執筆に近くなっている。理想というのも音ではなく、演奏全体の印象のことだ。
「小説の執筆」と「楽器の演奏」の中間にあるような「モード奏法」。ここに文学のヒントがあるのだろうか?
・コメント返信
>無為さん
 ありがとう。なむなむ。

 聖家族はトップ10には入っていないけれど、投票はされたみたい。これまたmixiからの情報なのだけど。

 ミクロとマクロという言葉でいいかどうかは分からないけど、レッテル貼りということはまさに前田の言いたかったこと。個人にレッテル貼りをするのは差別に繋がると思うのだ(それ自体を差別ということもあるし)。逆に団体に所属する個人だけを見て団体全体を判断するのも愚行だしね。


・そういえば
 演技力は何となく凄いかどうか分かるけど、前田は歌唱力が分からないことに気づいた。そもそも「歌唱」力って何だ? 音楽って歌の部分だけで決まるわけではないし、それに歌うのが下手でも凄い歌っていうのもあると思う。
 同じく、文章力って、なんだろね?


・歌唱力
「グレープフルーツちょうだい/ゆらゆら帝国」という曲があるんだが、これはもう歌唱力云々は全く関係ないように思える。歌唱力はいらない、というか。しかしそれは「簡単に歌える」ということではなく「誰でも歌えるけど、カッコよく歌うのは凄まじく難しい」ということだと思う。
 技術・理論というのはその作品を良くする効能はあるけれど、凄いものにすることはできない、っていうことを前田は言いたい。
 ちなみにyoutubeではライブ映像しかみつからなかった。この曲はCD音源の方がカッコいいと思う。


・読書
「羊をめぐる冒険/村上春樹」読了。
 村上春樹は主人公の空気というか、感情の覚め方というか、その辺りが好きだ。今作もその、前田の好きな部分は、当たり前だが、発揮されている。
 で、その他の文学的要素は何なのか? これが分からない。
 そして分からないながら、ひとつ思ったことがある。つまり「どうして俺は小説を読んでいるのだろう?」
 そりゃ面白いから読んでいるというのもあるし、自分が小説を書くために読んでいるというのもある。それはいい。分かりきっている。問題は「読むことがどうして書くために繋がるのか?」ということ。または「どう繋げるか」ということ。
 単に「知らない世界を知るため」「理論・技術を学ぶため」とか、そういった認識だけで読書を続けていってもしょうがない気がした。

 さて、今作の中身について全く触れていないわけだが……。
・執筆
 現在取り掛かっている作品がものすげえ難産。あまりの進まなさ具合のために、誰かに言いたくなったのでここで「難産だぁ!」ということを言っておく。だけど面白いはずなんだ……。


・本屋大賞
 ノミネート作品が発表されてた。
リンク>http://www.hontai.jp/
 本屋大賞に挙がる作品は大抵が面白く、人に勧めやすい。しかし、mixiにてある人がこんな意見を述べていた。
「本屋が売りたい本じゃなくて、本屋がたくさん売った本にあげる賞になってしまっているじゃないか」
 上のノミネート作品を見ても、確かになぁ、と思ってしまう。商売だから仕方がないといえば仕方ないのだけど、長期的に見たら「売れるべき作品なのに!」って作品が挙がってくれる方が良いのではなかろうか。既に売れている作品ばかりだと、そこから読者層が広がりにくいのでは? 新たな読者層を獲得するのは、まだ日の目を見ていない、しかし読書好きが選ぶような作品だと思うのだ。
 個人的なことを言えば、古川日出男がノミネートされてほしい。「聖家族」は読んでる途中だけど、すげえぞ、あれ。


・読書
「GO/金城一紀」読了。
 何故だろう。あまり感想が浮かばない。「大衆と個人を混同してはならない」ということを訓示のように思ったけど、それは小説の読みではない気がするし……。
 とはいえ「大衆と個人が混同して扱われる」、つまり偏見というものを扱うのは「個人の事情」「現実の人間はワイドショーで扱われるような単純なものではない」ということを描くのに使われるひとつの技術だろう、とは思った。
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