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・読書
「浄土/町田 康」読了。短編集。
 初読で何がなんやら、という感じだったので二読したところ(とはいっても「犬死」だけだが)、テーマのようなものが分かった。
 テーマが自分の中に明らかになるということ自体はいい。問題は、一度気付いたテーマからの観点のみで作品を読もうとしてしまうという点だ。つまり、読書の視点が固定されてしまう。思考が不自由になるということ。
 前田は「犬死」に「人間の内面と、人間を取り巻く外部の関係」という観点でのテーマを読み取ったのだが、テーマを発想して以降、作品の各部分を全て上のテーマからでしか考えられなくなってしまった。
 思考が束縛されること。これがまずい。小説を読むということの豊かさが失われてしまう気がする。これは「比喩が面白くない」ということに似ている。テーマによって小説が比喩されてしまっている。

 と、そんなことを思った読書になった。あと、町田康が町田町蔵だということを解説で初めて知った。
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・コメント返信
>kisaさん
 ミステリ好きにとっては、やっぱりそっちの方だよな。

>無為さん
 グイン・サーガは確か完結してなかったと思う。あと何巻かは出せるだけの原稿溜まってそうだけど(栗本薫はかなり速筆だったはず)、完結まではいってないんじゃないかな。ファンにとっては残念な話だけど……。


・読書
「夏への扉/R.A.Heinlein」読了。
「孤高の人 6/坂本眞一」読了。
 今回、批判的な感想を書く。比喩について。「夏への扉」は冒頭の3ページについて思いっきりネタバレするので注意。「孤高の人」についても、単行本5巻と6巻の描写についてネタバレします。

 夏への扉、というのは作中で二種類出てくる。ひとつが猫のピートの探す扉。もうひとつが主人公デイヴィスの探す扉である。この二つの扉の最大の違いは、比喩されているかどうか。
 前者は比喩のない「夏への扉」である。作中で明文化されている通り、猫のピートは本当に「夏に繋がっている扉」を探している。今が冬でも、そこを開ければ夏に出ることができるという、そのままの意味だ。
 対して、主人公の探す「夏への扉」とは、本当に夏に繋がっている扉ではない。物語上で主人公が求めているものの比喩だ。
 前田は今作の冒頭を読んだとき「これは名作だなぁ」と感じたのだが、その理由は「比喩ではない夏への扉」にある。逆に、「比喩としての夏への扉」には面白味を感じなかった。正直に言えば、つまらないと思った。
 比喩でないということの面白さと、比喩であるということのつまらなさ。この違いは何なのか?
 ここで「孤高の人」の描写を持ってくることにしよう。
 5巻に、主人公の森文太郎がひとりで山の尾根を歩いているシーンがある。ここで、文太郎の「山が好きだ」「山を歩くのは気持ちが良い」といった心情表現として「白馬に乗って夜空を駆ける」という表現が成される。だが、前田はこの表現を「つまらない」と感じた。
 次に6巻。文太郎が山の夜明けを見るシーン。ここでは夜明けの美しさの表現として、オーケストラの演奏が同時に書かれている。この表現に対してやはり前田は「つまらない」と感じた。
 ふたつの表現の共通点は何かいえば、比喩である。白馬もオーケストラも、山を比喩するものとして書かれている。この比喩のために、山の素晴らしさが矮小化されてしまっている。「山にしかない魅力」が相当に除去されてしまっているということ。山を歩いて「白馬に乗って夜空を駆ける」ような気持ちになり、それが楽しい/気持ちいいというのなら、最初から白馬に乗ればいいし(まあ、夜空を駆けることはできないが……)、山の夜明けを見てオーケストラを聴いている心地になるのが良いというなら、山に登らずオーケストラを聴けばいいのだ。
 山の素晴らしさを比喩で表現されても、尾根を歩く→乗馬、夜明け→オーケストラといった「イメージの置き換え」が生じるだけで、山そのものが伝わらない。比喩の功罪といっていいのではないだろうか。喩えることで「分かりやすい別のもの」として伝えることができる一方で、そのものを伝えることはできていない。比喩によって、山に「乗馬」「オーケストラ」といったイメージを付加させていると同時に、「山それ自体」のイメージが除去されてしまっている。そのために山に対するイメージが膨らまず、矮小化されることになってしまう。
 以上のような「比喩による矮小化」に類することが「夏への扉」でも起こっているのではないか?
つまり、物語を通して表現された主人公の求めるものが単なる「夏への扉」という言葉に矮小化されてしまっているから、「主人公の探す夏への扉」がつまらなく思えてしまうのではないか?
 以上が「比喩であるということのつまらなさ」なら、「比喩でないことの面白さ」は何か? 単純に「矮小化」の逆、いうなれば「イメージの拡大」か?
異化が「イメージの拡大」の一種ならば、なるほど、当てはまりそうである。

 と、まあ、批判的に書いたが、以上のことが「夏への扉」の面白さにどれほど影響するかといえば、殆ど影響しないだろう。ポイントは別のところにある。
・グインサーガ
 ひとつの時代が終わった感。前田は栗本薫の読者ではなかったけれど、「うえぇ!?」と叫んでしまった。


・言葉と思考の速さ
 前田の場合、考えるよりも先に言葉が出てくる、ということがある。例えば「二人の人が同じ対象を見ていたとしても、全く同じ様に見えているとは限らない」云々という考えをしていたとき、唐突に「そういう人間の在り方が神秘だ」という言葉が出てきて、自分で驚いたりする。「今まで神秘だなんて思ってなかったのに」
 ここでのポイントは、思考のプロセスを経ず、唐突に「人間の在り方」と「神秘」という言葉が繋がってしまった、ということ。沸いて出たような「神秘」という言葉により前田の中で「人間の在り方」のイメージが膨らんだ、という点である。
 イメージが膨らむというのは、思考が進むと言い換えてもいいだろう。つまり、言葉が先に生まれて、その言葉が思考を引っ張っている。
 こういう言葉を先行させる思考は中々面白いと思うし、小説にも応用できる。現に前田は「言葉を先行させる」ようにして小説のプロットを考えたりしたことはある(尤もそのときは「言葉を先行させる」などと意識していたわけではない=「言葉を先行させる」と明文化させていたわけではない)。
・コメント返信
 何なんだろうな。もっとも、どうやって危険度の算出をやってるかも分からないから、9%の意味も分からないんだよね。


・あ! こんなところに!
 山本周五郎賞が発表されていた。
リンク>第22回 山本周五郎賞受賞作品発表
 受賞者ではなく、候補者に目がいった。橋本紡がいる!


・素敵思考
 例えば小説に関して考えるとき、それが正しいかどうかで思考を評価するのではなく、素敵かどうかで評価した方が素敵だと、「君の夢 僕の思考/森 博嗣」を少々立ち読みして思った。
 ここでのタイトルはUnidentified Fantastic Thinkingとかにしようと思ったけど、Unidentifiedは不適当だった。かといって適切な単語を探すのはメンドイ。


・読書
「スモールプラネット/本城直季」を少し眺めた。写真集。kisaさんに感謝。
 俯瞰して見た町などの写真集。しかし単なる町ではなく、どれもがミニチュアのように見える。「何を撮るか」ではなく「どのように撮るか」の凄さ。
 特徴として、一枚の写真の中に複数のピントがある。これがミニチュアのように見せるための工夫なのかどうかは分からないが、ともかく、そういう特徴があった。そしてその複数のピントの存在が面白かった。普段の生活では見えない視点だからだ。
 もちろんわざとピントをずらして物を見ることは可能だが、ズレたピントの視界と合っているピントの視界は共存できない(少なくとも前田は共存させられない)。つまり前者と後者の視界は時間的にズレて存在するのだが、写真だと共存させることができる。時間が関係ないというか、時間の全体を撮っている、と言ってもいい。「全体」というのは恐らく「表現」ということを考えるとき重要なポイントになる概念で、その「全体」を写真上に表している。そこが面白かった。

 ところで、前田は数枚の写真を眺めた後、あとがきとか解説を探してしまった。言葉ではない写真という表現に対して、どうして言葉による解釈・解説を求めてしまったのか? 答えは安心したいから、だろう。感覚、感触、感情などの本来言葉で十全に説明できないものを言葉に定着させるということは、あやふやなものを確かなものにするということだ。曖昧を排除して人は安心を得ることができる。
 だが、表現者、創作者がそうやって安心してもいいのだろうか? 小説家だとしてもだ。
 分からない感覚を分からないというまま持っておく。或る観点においては重要なことだ。
・ウィルス
 こんなやつが流行っているらしい。
リンク>通称「GENOウイルス」・同人サイト向け対策まとめ

 解の有る方程式は
リンク>GENOウィルスチェッカー
 でチェックした限り大丈夫でした。


・購入本
「SHORT PROGRAM GIRL'S TYPE/あだち充」購入。少女マンガとして描かれたものらしいが、SHORT PROGRAMならいいだろうと思い、買った。
 まず何よりも絵柄が古い! 初出がどうやら30年前の作品とか載っている。
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