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・コメント返信
>kisaさん、Rufuさん
 お二人の意見が全く矛盾していないのが凄い。純愛は奥が深いですね。

>altさん
 マジカルなんたらワード。あれですか。USBメモリが五万円でもヴィトンが出せば売れるみたいな感じですか。


・周辺
 猫のみぎゃー!みぎゃー!が良く聞こえてくる。


・座禅
 ZAZEN BOYSなるバンドのhonnojiという曲が何かすげえ。
 らいーふ。らいふいんざぉーたー。
 らいーふ。らいふいんざこーるどぉーたー。
 古川日出男ファンは向井秀徳ファンにもなっておくとお得。
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・ピュア
 よく「純愛」とかいう言葉使われる。純愛小説とか。けどよく考えたら「純粋な愛」の意味が分からない。愛という感情の範囲は人それぞれだし、愛は単一の感情だというには複雑だろう。
「人間に対する好きという感情」は愛の一部ではあるが、これを以って純愛とする、つまり「好きという感情」だけを取り出してくると、これは愛でない。例えば好きなだけなら、付き合ったり結婚したりする必要がない。しかし実際の純愛物は恋人関係云々がドラマの中心になっているのではないか。
 以上のことより「純愛とは純粋な愛のことではなく、純愛という、また別の感情である」ということがいえる。または愛の強調表現として純愛という言葉があるのかもしれない。


・携帯
 七年間くらい使い続けた携帯をついに変更した。その結果、使わない機能を使えるようになった。電源を切った後、起動するのにやたら時間がかかるようになった。使いにくくなった。重くなった。そしてかなり薄くなった。
 この薄さが何故か面白い。薄いという触感が面白い。前田の知らなかった感触である。


・ギター
 始めてから四ヶ月くらい経った。大して上手くなってもいない。
 それはそうとギターの単純な練習が思いの外面白い。既にある譜面をなぞっていくという行為は小説を書くということと全く違う。
 違うというのは単純に創作性の問題で、小説は創作だが(前田にとっての)ギターは創作では全然ない。ポイントは繰り返しで、ギターの練習とは演奏者のrepeatabilityを上げることだ。小説においてはそのような考えをしない。
 この、repeatabilityを上げていくという過程はなかなか面白いし、楽しい。前田はシューティングゲーム(STG)が好きであるが、その理由もまたrepeatabilityにある。だから前田の最も好きなSTGは斑鳩にである。
・同時進行
 歌いながら文章を書くということをやってみた。曲は歌詞を全て憶えているもので、文章を書くというのは既存の文章を写し取るということである。個別にやれば難しくも何ともないが、同時にやるだけでかなり難易度が上がる。
 ポイントは、少なくとも前田は違うことを同時に思考できないという点。歌と文章を頭の中で細かく切り替えながらやっていくと、何とか、できないことはない(それでも歌詞をミスったり打ち間違いをしたりする)。
 普段しないような思考法だったので、なかなか面白かった。ギターボーカルの人は、要はこういうことをミスなしでやっているんだろう。恐るべし。


・読書
「百合/川端康成」読了。「掌の小説」に入っている掌編のひとつ。今作が衝撃的に面白かったので買った。
 この作品にも比喩でないということの面白さが詰まっている。最後の一文がそれで、比喩と捉えてしまうと面白さが半減してしまうような気がする。その意味で今作は非常に映像的だ(主人公の行為に視覚的な描写が多いのは伏線の一種なのか?)。
 非常に短いがストーリーとしてきっちり起承転結をつけているのも面白かった。ちゃんと起伏がある。
 あと、前回の記事と繋がってくる(気がする)ことがひとつ。「小説家になる!/中条省平」では感情の相対化が文学の基本だというように書かれていた。しかし今作は相対化されていないようだ。語り口こそ淡々とした三人称であるが、主人公からの視点しかなく、相対化はされていない。
 相対化されていないということが、それはそれで面白かった。しかし「比喩ではない」という面白さとやや競合しているようにも見える。つまり「主人公からの視点しかない」ことによって「比喩の可能性が生まれてしまう」のではないか? 非相対的ということと比喩でないということが個別に読むと面白いが、纏めて考えると面白さが減ってしまうという不思議。前田が同じような掌編を書くならば、この辺りを改善したい。
 ということで、書くことにする。
・ふと思った
 小説には「感情を相対化する」という技術があるが(夢十夜の醒めた感じ、といえば分かりやすい)、前田は何故この技術を使うのかを考えたことがなかった。つまり、或る作品について「何故相対化しているのか?」と問うたことがない。
・供養
 何かもうダメだと思ったので、自作のダメな感じの小説を上げることにする。小説の供養。どこかちゃんとした所に提出できないようにする、ということでもある。




 どうやら三日前から雨が降り続いているらしい。くぐもったような水の音が聞こえている。水の匂いもする。外に出るには傘が要ると思った。
「もうじきあの子が帰ってきますから、待っていてください」
 語尾が溶けて消えていくような、高い声が聞こえた。人が傍にいる気配もあった。自分以外の身体があるだけで、どうして気配などと曖昧なものを感じるのだろう。息遣いだろうか、伝播する体温だろうか。いずれも微かなものに変わりない。人一人分の空気がこちらに迫り出しているからかもしれない。
 顔を向けようとすると、首の皮の引っ張られる感触があった。頭蓋というのは思いの外重量のあるものである。同時に背筋の曲がっていたことに気づいた。筋肉が弛緩している。
 私にはあの子とは誰のことなのか、とんと分からなかった。疑問を口にすると舌の縁に唾が滲んだ。喉の中が震えたようだった。掠れるしか能のなさそうな、頼りない震えだった。大声を張ろうとすれば難儀するだろう。私は困惑した。
「あの子はあの子じゃないですか」
 また声が耳についた。先よりも低いようだった。言葉の違いではなく、心情に根差した違いだろう。当たり前の質問に対する呆れが混じっているのだろうか。
 しかし私も名前など要らない気がしてきた。私の困惑はいつの間にか消えていた。もうじき帰ってくるのだからそれで良い。
 私は煙草を吸いたくなり、袂を探った。指が軽いものに触れた。からからと鳴った。
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