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・最近思ったことを簡単に
 ストーリーとキャラクタが不可分であるというのは小説作法でも良く言われることだが、文体がキャラに先立ち、かつ文体とキャラクタが密接に関わり合うということもあるのではないか? ここから、文体とストーリーも強く関わっていくのではないか?
 作品を書きながら、そう思った。結果は作品が書きあがってから。
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・読書
「演技の基礎のキソ/藤崎周平」読了。演技に関する講義録。演技についての教本だろうか。具体的な練習方法なんかも書かれている。
 もちろん直接的に小説のことは書かれていないのだが(劇作の話もこの本には載っていない)、小説を考える役に立つような気がした。例えば、小説と作者の関係、キャラクタと作者の関係、など。
 本の内容が小説についてではなく、更に感覚的な話が非常に多いので、読む側は小説に還元しようとする際、ちゃんと考えて、解釈しなくてはならない。読者に思考を促してくるということはそれだけ鵜呑みにしてしまう危険性が少ないということで、有り難い話である。
 しかし前田はまだ、小説への還元をどうするべきかを纏められてないので、再読することにする。

 あと巻末に載っている「演技の基礎のキソを更に考えるための関連書籍」の中に「書きあぐねている人のための小説入門/保坂和志」が挙げられていた。やはりこの本は小説に還元できる……というよりも、「書きあぐねている~」と同じように表現の基礎について考えているのだろうと思った。
・コメント返信
>kisaさん
 映像化を想定して書く小説か。前田は一度書いたことあるが、表現の上の制限がつく、というくらいだったな。文章でしかできないことを盛り込むと、映像化したときにその面白さが消えてしまうし。その分、作品の魅力をストーリーに込めなければならないのだと思う。

>simo
 がっかり感? それは表紙絵がひどかったからなのか、また他の連載を始めやがって!と思ったからなのか。
 再開の期待よりも先に、アフタヌーン連載のACONYが完結することを祈るべきだな。


・詩人
 谷川俊太郎と覚和歌子の対談・朗読会に行ってきた。対談のテーマは言葉について。音としての言葉と活字としての言葉、といった話とか。
 詩も何編か朗読したのだけど、その中で「みみをすます/谷川俊太郎」がすごかった。以下、広義のネタバレ。
 この詩では遠い時間と遠い空間をこちら側(読者のいる時間・空間)に持ってくる、ということをしている。
 そもそもフィクションでは時代も場所も自由に書くことができる。「1898年ブラジルでのことである」と書いてしまえば、フィクションの中では1898年のブラジルなのだ。そうでなければ時代モノなんて成立しない。当たり前のことだ。フィクションでは時代も場所も自由に「作る=設定する」ことができる。
「みみをすます」で行っているのは、そういうことではない。1898年のブラジルを読者のいる時間・空間の上に作るのではなく(この場合、読者が向こうの時間へ行く、と表現するのが前田のイメージに合っている)、1898年のブラジルを読者のいる時間・空間に「持ってくる」。読者の時空が1898年ブラジルになるのではなく、読者の時空かつ1898年のブラジルになる。現在が過去と繋がるというダイナミズムが強烈だった。
 こういう、時間・空間を「持ってくる」というのは、言葉でしかできないんじゃないだろうか、という気になった。

 なお、「みみをすます」には1898年もブラジルも登場しない。
・絵と文
 凄く当たり前のことなのだけど、マンガで成される表現というのはやはりマンガでしかできない表現なのだ。小説で成される表現というのもやはり小説でしか成せない表現であって、だからマンガの表現を小説に持ち込む、小説の表現をマンガに持ち込むといったことは、試みるようなものではない。
 マンガを何冊か読み直していたら、ふと、そういうことを強烈に感じたので、今更だが(印象という言葉で何度か記事を書いている気もする)、書いておく。


・読書
「ももんち/冬目景」読了。マンガ。冬目景は好きな作家なのだが、いつも連載を完結させずに別の連載を始めてしまい、連載ペースが落ちまくるんで困る。今作も「また新連載か!」と思って敬遠したのだが、一冊で完結していると情報をもらい、買った(奥付みたら、単行本の発売が09年5月。第一話の初出が06年、最終話の初出が09年だった。五話書くのに三年かかっている。恐ろしい……)。
 面白いと思ったことがふたつ。
 まず「第○話」の表現。「第一話、ジョニー現る!」みたいなやつの「第一話」の部分。今作では第一話なら「MOTIF:1」という具合になっている。前田はMOTIF・モチーフという言葉を「何かを表すために利用する何かとは別のもの」という意味で捉えていた。この捉え方は間違っているようだが、今はそんなことは問題ではない。重要なのはMOTIFと名づけることでMOTIFとして捉えられていなかったものがMOTIFとして捉えられてしまうという、名前の持つ力だ。これは言い換えれば言葉の持つ力でもある。
 一方で、よく小説では「直接的な言葉を使わずに、その状態を表すべし」と言われる。「きれい」であることを表すならば「きれい」という言葉を使うなと、そういうことだ。こちらの用法と先のMOTIFの用法は別物なので、注意が必要である。
 もうひとつが、ネガティブな気配がしない、という点。これは単にマンガという媒体だからなのか、この作品特有のものなのか、判断はできなかった。
 あと、ももが八重樫さんより若くみえる(何故か八重樫さんにはさん付けしてしまう。千砂は千砂なのに)。
・朗読
「朗読しながら小説を書くことにどんな意味があるのか?」みたいな話を何度かこのblogに書いた。んで、ふと「既存の小説を朗読するとどうなるのか?」と思ったので、試しに「ハル、ハル、ハル/古川日出男」を朗読してみた。
 ひとつ分かったことというか、もしかしたら、という疑惑を持ったことがひとつ。
「台詞を単調に朗読してしまう作品は、キャラが立っていないのではないか?」
「ハル、ハル、ハル」を読んだときは、声に抑揚がついたが、前田が自分で書くときは抑揚がつかない。特に台詞が。これはちゃんとキャラを書けていないからなのではないか、という疑惑である。
 そもそも前田はキャラ(=人物)を描くのが苦手である。
「演技の基礎のキソ/藤崎周平」という演劇の教本のようなものに「感情を声に出すのではなく、声を出すことで感情を作る」といったことが書かれていた。辛いときでも、顔で笑ってみれば、意外に気分も晴れる。そういう意味合いである。ならば、小説を書く際も外面=朗読の声を作ることで、書くものにも影響を与えられるのではないか?
 ひとつの方法論として試してみたい。


・音楽と小説
 バンド・凛として時雨は作曲しながらその曲をレコーディングすることがあるらしい。音楽の分野には即興というものもある。
 以前にも少し書いた「音楽と小説の関係」だが、上のことは考察を進める上でのキーワードになるのではないかと思った。


・読書
「後巷説百物語/京極夏彦」読了。
「巷説百物語」、「続巷説百物語」と続いてきていて、作中の時系列的には今作がシリーズの最後になる。前田は無印と続も読んだが、今作が最も面白かった。ただし人に勧めるとするならば、今作だけではなく、無印と続を読んでから読むことを勧めるだろうと思う。このシリーズは短編連作の体裁を取っているが、そのように「物語を積み重ねるということ」に大きな意味を感じたからだ。「百物語」というタイトルの意味もそこにあるのだろうと思う。
「言葉の意味を拡張すること」というのが小説の効果(というか、役割というか、力というか)のひとつであるが、今作はまさにそのような小説だった。この小説は「物語」という言葉を拡張しているような気がする。
 シリーズ通しての(前巷説百物語を除く)語り部は百介だと思うが、このシリーズはまさに百介の物語だった。百介の持つ物語、というべきか。
 ポイントは「時間」だと思う。小説を通して語られたことは百介の時間でもあるのだろう。シリーズを通して読み、今作も最初から読むことで、読者は百介の物語=百物語を語られる。そうされることで、読者は「物語」という言葉により大きな意味を感じるようになる。「今は昔」という決まり文句にこれほど感動した記憶は前田にはない。
 実に満足した読書だった。しかし欠点というか、気になったこともないわけではない。途中でダレてしまった部分があるのだ。途中で飽きかけてしまった。しっかりとストーリーの定型が決まっているため、なのかもしれない。
 読んでいるその文章で止めずに、次の文章を読ませるための力とは何なのか、前田はそれを考えなければならないだろう。あと、文章がページを跨がないようにするという工夫が京極作品には施されているが、今作ではそのための無意味な改行が多い気がした。予想だが「読者の読みやすさを配慮するために」文章がページを跨がないようにするという工夫は、少なくともアマチュアのうちはやるべきでないと思う。

 今作といい「聖家族/古川日出男」といい「ゴールデンスランバー/伊坂幸太郎」といい、最近、強烈に「時間」を感じられる作品によく出会うようになった気がする。聖家族とゴールデンスランバーは発行時期が近いが、今作はずれているので、何もブームという訳ではあるまい。前田がそこに注目するようなっただけかもしれない。前田は「時間」を描く作品を書きたがっている、とも解釈できるかもしれない……。
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