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・コメント返信
>kisaさん
 いや、そういうつもりでもないんだけどね。「サクリファイス」にせよ「一瞬の風になれ」にせよ、マイナスポーツが題材で気になっていた作品だし。後者はタイトルが気に入っていたというのもある。
「ゴールデン・スランバー」は先輩に借りる機会があったから。


・ミステリについてのhow
 ふとした思い付き。新しいミステリを発掘しようとするおき、ミステリの定義とは云々を考えていくのではなく「何を以ってミステリと感じるか」「何を以ってミステリではないと感じるか」ということを考えていくことが大切ではなかろうか。
 その結果として生まれる小説がミステリではなくなっても、これは一向に構わないという前提だが。むしろ、積極的に「ミステリじゃない!」と言われるような作品になる方が、前田にとっては好ましい。


・読書
「異邦人/ALbert Camus」読了。窪田啓作訳。新潮文庫。
 これまた人間を描くことがメインになっている感じの小説(否定しているわけではない)。アオリに「不条理の認識を極度に追及した」とあったが、確かに、そういうことを描いているのだろう、と思った。そんなこと普通は考えないだろう、そんな行動はしないだろう、そんな人間を描いているように読めた。
 しかし前田としては主人公の思考が特に奇妙には思えず、むしろ陪審員ら、多数の人間の持つ主人公に対する評価の方が目についた。「個人の事情も知らずに歪められた情報によって、勝手な倫理を押し付ける」陪審員らが嫌だった。風刺に見えた、ということである。
 しかし多くの歴史に残る文学は風刺ではないだろう(この作品はカミュのノーベル賞受賞の理由のひとつとして挙げられるらしい)。風刺に見えたということは、単に前田が「個人の事情も知らずに歪められた情報によって、勝手な倫理を押し付ける」大衆が嫌いであり、そこに関心を寄せられているからに過ぎない。小説を書くときには作者が大なり小なり出てくるが、小説を読むときにも読者が大なり小なり出るものである。当たり前のことだが、その当たり前を実感できた。
 あと、この作品には多くの風景描写が使われている。これは保坂和志の言う「風景による思考」の一例じゃなかろうか?
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・トリビア
「耳をすませば」を観て鬱になる人が「一瞬の風になれ/佐藤多佳子」を読むと自殺する確率はどれくらいなんでしょう。これって、トリビアになりませんか?


・読書
「一瞬の風になれ/佐藤多佳子」読了。一人称的タイトル?じゃなくて三人称的か?
 ものすげえ青春小説だった。同じくマイナスポーツ題材の青春小説の「DIVE!!/森 絵都」と並ぶ作品として前田は認知していたのだが、かなり違った。「DIVE!!」はストーリィがあって、ストーリィを読んでいく小説。良くも悪くも「劇」だった。対して「一瞬の~」は読者がひたすら主人公の中に入っていくような小説で、要は感情移入で読ませる感じだった。小説を読んでいるというより、小説を体験しているといった方が近い。前田は主人公の惚れている相手にうっかり惚れそうになった。原因はたぶん、その相手の描写が良いからではなく、主人公がその相手に惚れているからだろう。
 この小説にあるのはストーリィではなく主人公の目標だ。陳腐な言い方かもしれないが、人生の一部を切り取って小説にした、というような。問題の解決とか決着とか、そういう劇作論とは切り離されているようだった。
 読んでいる間が最も面白い小説で、読み終わったのが残念だった。終わりの文章が好きじゃないというのもあるかもしれないが。
 そして今作を読んでやっぱり思ってしまうのは「小説で描かれるのは人間」であるということ。恐らくエンタテイメント系の小説で人間が描かれなかったことは一度もない。純文学系を含めても極端に数が少ないだろう。小説を読む人間は人間に興味があるらしい。
・タイトル
 小説のタイトル(あるいはその付け方)を二種類に大別することができるんじゃないか?とか思った。つまり「作品の中にいる人間から見たもの」と「作品の外にいる人間から見たもの」。一人称的、三人称的、とでもいうか。
 前者は作品の登場人物からみた物語であって、仮に作中でそのタイトルが台詞なり何なりで出てきても違和がない。後者はその物語を作品として見ている人物=作者なり読者なりにとっての物語に付けられる名前だ。単語だけのタイトルは後者に属するものだと思う。
 以上のことをタイトルを付けるときに考えておくのは大切な気がした。え? 当たり前のことですか?
・コメント返信
>emptyさん
 自分はジョン・ケージの著作を読んだことがありませんでした。他の分野の芸術論をかじるのは面白そうです。

>Rufuさん
 今の自分の持っている問題というのはまさにそこでして、つまり「弄ばれるように読むって何だろう?」

>kisaさん
 つーことで機会を貰いました。感謝。


・郷愁
 中学~高校時代には周りの人間は当時の音楽を聴いていた様子だが、前田は反発して当時の音楽を聴かなかった。しかし音楽自体はよく聴いて、何を聴いていたかといえばビートルズである。父親のレコードプレイヤを借りて、レコードで聴いていた。Abbey Roadも聴いたことがある。


・読書(重力ピエロにも少し言及)
「ゴールデン・スランバー/伊坂幸太郎」読了。
 伊坂作品にしては会話が大人しい気がする。「おお」と声を上げてしまうような巧い台詞がなかった。単に前田のセンサが鈍いだけかも。代わりに「物語を積み重ねた末にとても重みを持つ言葉」があって、強く印象に残っている。一行どころか五文字で済んでしまう言葉だが、それを凄いと痛感できる。小説の醍醐味のひとつだ。「重力ピエロ」にも「積み重ねた末の言葉」があって、それよりも強烈だった。これだけで「重力ピエロ」以上の作品だと思ってしまう。
 テーマを一語に押し込めてしまえば「時間」となるのだろうか。題名、構成、伏線の張り方にそのテーマを感じた。んで、その伏線についてなのだが、どうも二種類に大別できる気がする。
 ひとつが既に登場したobject(人やもの)が再度登場する場合。もうひとつが既に言及されていた人の状態が現在に活きる場合。後者は、登場人物の或る性格や癖が発揮されるというような伏線だ。今作ではこの伏線に郷愁が付加されている。どうやって付加させているかは明らかだろう。大抵の小説が物語を使って登場人物に大切さを付加しているのに対して、この作品では、小さなエピソードを使って登場人物の小さな癖に大切さを付加している、そのような印象を受けた。このような伏線は、寡聞ながら、前田の今まで読んだミステリにはなかったもので、面白かった。
 作品全体としては伊坂の構成の妙ががっちり発揮されているようで、凄いの一言だ。しかし、題名、構成、伏線を貫く分り易いテーマのお陰か、決して「信じ難い」作品ではなかった。傲慢な言い方になるが、これなら前田の考えている小説制作の論法でいずれ到達できると思ったのだ(距離はともかくとして)。もちろん小説はそれだけで出来ているものではないのだから、いずれ伊坂幸太郎並の作品を書けるとは思っていないが、まだ。
・コメント返信
>kisaさん
 ミステリと見せないミステリ作家なんかな、近藤史恵。「サクリファイス」では冒頭からそういう印象は受けなかったけれど。


・オーケストラの感想
 指揮者というのは非常に重要な役目だとは知っていたが、重要だと実感したのは実際にコンサートを注意深く聞いてからのことだ。その実感はコンサートでなければ得られないものだっただろう。というのは「生演奏には生演奏にしかない‘空気’があるから」という抽象的な理由ではない。指揮者や演奏家の動作が見えるからというのが理由である。鳴っている音がきちんと人間の動きに対応しているという統一感が面白く、ここに指揮者の重要性があるのだろうと思った。だから指揮者の重要さが実感できたとはいっても、演奏者としての実感ではないので、本当はもっと別の意味で重要なのかもしれない。
 そのような統一感というのは小説を書く上でも恐らく大切なことで、何故かといえば、小説の情報というのはパラレルに伝達されるものではないからだ。「放課後の音符/山田詠美」で前田が感動した一文に「全ては同時に起きている」というものがある。この文章にある感動は、小説(文章)がシリアルなものであるということを前提としている。統一感というのもパラレルな情報に由来したものだ。
 現実がパラレルだから小説もパラレルを目指すべきとは言わないが、少なくともその差について考えながら小説を書くことには意味があるはずだ。
 差分について考えるということをもう少し拡張すると「言葉は現実を何一つ伝達できない」ということに至る。上記の前田の感想・実感だってそうだ。読者は前田と同一の実感を持つことはできないだろう。前田は理由と結論を書いているだけで、前田のコンサートでの体験というのは、このblogの読者は得ることができない。
 小説だと、作品の目指すリアリティにも依るとは思うが、言葉で現実を伝達するために、言葉を費やすことになる(費やすというのは沢山の言葉を使うということだけには留まらないだろう)。

 余談になるが、ジョン・ケージの4:33は、上に書いたような統一感の面から聴いてみると、前田には凄い作品に感じられた。


・オーケストラの感想に必要なこと
 と、まあ、感想に書いたようなことを意識しつつ小説を書きたいと思う。


・読書
「壁/安部公房」読了。難易度高え。「これはどういう意味か」「これは何の暗喩か」といった読みが簡単にできてしまいそうな作品だった(恐らくそのような読みの方が難易度が低く、同時に文学の読みではないと前田は思っている)。そんなわけで感想さえまともに持てず。
 しかし石川淳の序文の方が面白かったとはどういうことだ。
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